129: ホワイトベアー :2019/08/09(金) 00:48:13 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日米枢軸ルート 第35話

関東大震災後の極東

1923年に大日本帝国の帝都東京を中心に関東一帯に甚大な被害を与えた関東大震災は日本はもちろん1846年より友好国であったアメリカ合衆国でも新聞の一面を飾った。

この情報が知れるや否やアメリカ合衆国は日本への支援を表明し、救援物資を満載したアメリカアジア艦隊を日本に向かわせた。この未曾有の大災害の情報が知れ渡ると民間でもリメンバー・シビル・ウォーの合言葉の下、アメリカ全土で募金活動や慈善団体による支援活動がおきた。これ等の団体や募金、支援物資はアメリカ太平洋艦隊の艦艇と共に来日、震災でうちひしがれた日本人達に自らが孤独でないこと知らせ、日本人を勇気立たせた。

イギリスでもアメリカには負けるが支援物資を満載した東洋艦隊が救援に駆けつけてくれ、また義援金を送るなどの支援を行いなど、それまでの日本の対英不信を払拭させるさせるべく動いきだし、また、ドイツ帝国ではヴィルヘルム三世が餓えに苦しんでいた国民を救ってくれたお礼としてヴィルヘルム二世がほとんどの財産を持って亡命している状況でありながら少なくない寄付を行ってくれた。

こうした一連の出来事は日本に常駐していた外国人記者達の力無しにが出来なかった。彼らはこの震災の情報を多少装飾させたが、アメリカ本土などの諸外国に熱心に送り、遠い出来事だと考えていた各国の国民の心を大きく動かした。この力は震災後も日本に味方し、復興の際もアメリカ企業が自社のイメージアップも兼ねてこぞって復興国債を購入したことにより、帝都復興の大きな助けになった。この震災の復興計画により東京の大部分が近代的な都市として生まれ変わることになる。

この震災の結果、日本国民の対英対独感情は友好的に大きく上昇し、開国から続いていた日本の対英敵視や第一次世界大戦以降の対独警戒を大きく緩める結果となった。

1920年代、関東大震災の復興が進められつつある時にアメリカはロシア帝国に対しても莫大な投資を行う。1918年に極東に追い込まれたロシア帝国は広大な領土を有していたが、人口は少なく、主要な産業の第一次産業も人手不足から食料の自給すら出来ない状態であった。国民の殆どはロシア内戦から逃れてきたロシア人達で、内戦終結後もボルシェビキの迫害から逃れてきたロシア人達を受け入れたが、それでも人口の不足は補えなかった。

そこに投資先を求めていたアメリカが莫大なドルを投資したのだ。1924年にはルーブルとドルとの直接交換が可能になり、ロシア帝国でのドルの立場をより確固たるものにしたのだ。そして、アメリカが本腰を入れたことによりロシア帝国でのソ連の影響力を劇的に低下させたのだ。

130: ホワイトベアー :2019/08/09(金) 00:49:33 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日本企業や満州企業もアメリカに遅れるなとロシア帝国に対しての投資を増加させる。これらの投資によって流れ込んだ資本は国土の開発を進める起爆剤となり、国土開発が急速に進む事になる。この国土開発の一端としてとして鉄道のゲージを日本が採用している標準軌に変更させられるなどのソ連の影響力をそぐ工作も行われた。また、ロシア帝国時代は極東最大の軍港であったウラジオストクは商業港として開発され、日米の商船を次々と受け入れていく。足りない食糧や国土開発の資材や機材はこの鉄道や商業港を通して満州や日本から無尽蔵に供給されていった。

この頃の極東ロシアでは農場にはトラクターが、荒れ地や原生林には蒸気シャベルやブルドーザー、道路にはトラックやダンプカーがよく見られるようになり、それらやそれらに使われる各種資材は事実上日米資本によって運営されるロシア極東鉄道によって、日本本土で造られた蒸気機関車によって運ばれてきていた。これらロシア極東鉄道の路線はシベリア出兵の頃から軍の補給を名文に日米の資金で複線工事が次々とおこなわれており、さらに満州各所の鉄道との接続されている事もあって、こうした光景が実現したのだ。

このロシア帝国の動きは、ソ連に対して非常に強い不快感をもたらした。当然である、ロシア帝国は彼らが否定した資本主義国であり、さらにロマノフ家を君主とした立憲君主制国家でもあるのだ。不快にならないはずがない。当然、警戒も強めたが、当時のソ連は欧州方面でポーランドと言う数年前まで戦争をしていた相手がいることや国家の基礎を固め切れておず、ユーラシアの東部に影響力を強める事が出来ておらず、さらに経済もボロボロであったため、彼らに出来ることは亡命者に共産主義者を紛れ混ます程度であった。

しかし、そうした共産主義社も連邦中央捜査局と帝国警視庁の支援を受けたロシア帝国中央捜査局特別捜査部(ロシア帝国秘密警察の後身)によって次々と逮捕されていき、結果として大した効果にならなかった

そして1928年に開かれるオリンピックの誘致に成功した日本では、テレビ放送を始めとした宣伝活動に力を入れていく。また、東京オリンピックにむけ、関東大震災で被災した帝都東京の復興も急速に進められ、震災前はいまだに江戸時代の町並みが多く見られた東京は現代的な大都市に生まれ変わっていた。

これ等の公共事業や欧州の荒廃による一時的ではあるが市場の拡大によって日本の景気は大戦景気を越え、GDPも年2%程の伸びを記録した。結果、日本国内の内需が拡大、車や家電など多くの優れた日本製品が輸出されずに国内で消費される事になった。もちろん国外への輸出も増加したが、それ以上に国内での消費が増大したのだ。

この日本の内需拡大による供給の圧迫は日米関係に思わぬ影響をあたえた。本来ならライバル関係になったであろう日米だが、パイの奪いあいにはならなかった為、日米の経済面での関係悪化を防いだのだ。日本も満州や満州連邦、ロシア帝国への輸出は増加したが、ヨーロッパに進出余裕がなく、欧州やその植民地は一時的にであるがアメリカ企業の市場化されたのだ。

こうして1920年代のアジア太平洋地域は復興で足踏みをしている欧州をおいて安定した発展の時代に一足先には入ったのであった。しかし、経済の発展で割を食った存在もあった。その代表が両国の軍部である。

131: ホワイトベアー :2019/08/09(金) 00:52:31 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
日本では陸海共に軍縮の傾向になり、陸軍は航空軍こそ二六式要擊戦闘機 飛燕(※1)や二四式戦闘爆撃機 閃電(※2)など最新鋭のジェット機や二三式長距離地対空ミサイル(※3)や二九式地対空ミサイル(※4)の配備が進んでいくものの、航空機の総数自体は減らされていく事になり、地上軍は第一次世界大戦時180個師団の大兵力を誇ったが今や50個師団しか存在しないと言う状況にまで減らされ、また、歩兵装備などの更新は進むものの、重装備の更新は予想より大幅に遅れることになった。

海軍では、二七式艦上戦闘機 紫電(※5)や二七式艦上攻撃機 紫電改(※6)、二八式早期警戒機 旭叡(※7)、二五式戦略爆撃機などの新型機の配備は早急に進められていった反面、ワシントン海軍軍縮条約ですら守り通した長門型戦艦と天城型巡洋戦艦あわせて16隻が予備役送りにされ、さらに、ジェット機の運用に耐えられる中期建造型蒼龍型航空母艦より古い空母や小さくジェット機の運用が難しい護衛空母群を次々と予備役もしくは退役させると言う事態がおきていた。

艦艇が削減され背景には新規装備であるジェット機の価格が従来の機体より高いことや、艦艇の調達・運用コストの増大、原子力潜水艦のコストの高さ、戦略爆撃機や大陸間弾道ミサイル、水爆をメインとする核兵器群といった戦略兵器の運用を一手に任された事がその原因であった。

日本の同盟国であるアメリカも同様に軍縮に対応するために軍の質を上げていく事になる。

陸軍航空軍および海軍航空隊は次期主力戦闘機としてカモミールとボーイング(1916年に創設されている)、さらに川崎の三社が協力して開発したXP-26の採用を決定する。この機体はMig-17をモデルに開発された機体であり、ジェット機としては比較的安いコストと高い格闘戦性能をその特徴としていた。しかし、本機はあくまでも陸上機であり、海軍向けには大幅な改修がなされることになった。

また、ジェット機の運用が難しい旧式空母の代用艦の建造も開始されるなど海軍でも艦艇の更新行われ始める。

爆撃機としてはB-91を開発したボーイングが開発したジェット戦略爆撃機 B-47がB-91の後継機として採用され、1924年より実戦配備が開始されていった。しかし、調達数は陸軍航空軍が望んだ数よりも少なく、完全にB-91を更新する事はできなかった。


欧州情勢
日米が軍縮と経済的な繁栄を味わっているなか、欧州でもようやく各国で政治的・経済的安定が再び訪れており、人々の生活にゆとりが生まれ、大衆文化が登場した。例外はあるものの、民主主義体制が優勢で、程度の差こそあれ議会政治が重んじられた。各国の協調外交のおかげでヨーロッパに平和が訪れていた。

総力戦を経験したことによって欧州では女性の地位が向上、イギリスやフランスなどでは女性にも参政権が与えられるようになった。

132: ホワイトベアー :2019/08/09(金) 00:53:03 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
ドイツでは1920年に国民主権への変更の為の憲法改正に反対する右派政治家ヴォルフガング・カップとベルリン守備隊司令官であったヴァルター・フォン・リュトヴィッツを主犯としたカップの反乱が勃発、当初は陸軍兵務局局長(他国で言うと陸軍参謀総長)ゼークトが国軍相撃つことを嫌い出撃を拒否した事もあって、反乱軍にベルリンを占領され、新政府の樹立を宣言されるほどに事態は悪化するものの、この行動にヴィルヘルム三世が激怒し、軍部にただちに鎮圧を厳命したことでようやく鎮圧され事なきを得ると言う大事件がおきるなど政治の混乱は続いいていたが、1920年代後半になるとアメリカ投資による経済の復興が進んでいき、ようやく、ドイツ国内に安定が取り戻されていった。

余談であるが、カップの乱の首謀者であったヴォルフガング・カップとヴァルター・フォン・リュトヴィッツ、さらに軍の出動を拒否したハンス・フォン・ゼークトは国家反逆罪に問われ、裁判の後に銃殺され、ドイツ軍は文民統制の名の下に政府によって二重三重に縛り付けられる事になっていく。

ソ連では十月革命や日米の戦略爆撃、レーニンが主導した戦時共産主義によって崩壊した農業と工業の再建の為に五カ年計画と呼ばれる重工業優先の発展計画を開始する。しかし、帝政時代の国外資産の摂取に失敗したソ連は重工業化するための資金が極めて厳しく、史実よりより過激に各地ののうそんから食料を徴発、外貨獲得の為に国内で激しい飢餓が発生しても、食料の輸出を積極的に行っていった。これによって、史実ほどではないもののソ連の工業は発展していく事になる。

また、外交面では世界革命および永続革命を主張するトロツキー派を徹底的に弾圧することで、イギリスやフランスとの関係を再構築するための下地を作り、さらに大きく下手に出ることで、なんとか国交正常化を図ることに成功、少しずつだが、国際社会への復帰へと足を進めていった。


支那情勢
支那での国際情勢は基本的に日米英は歩調を合わせる事を心がけた。特にナショナリズム被れていた中華民国が満州連邦の取り込みを目指そうとすると満州連邦の建国から同国を支援し、経済的な植民地としていた日米が強く反発し、イギリスもそれを支持するという状態が続いていた。

また、日米は満州連邦軍への軍事指導を皮切りに、武器や資金の援助も実施して満州連邦の守りを固めさせるのと同時に、経済的な発展を支えていく。これによって、満州連邦では急速に経済を発展させていく。満州連邦内にいた漢民族も円やドルの前では従順であり、いくら中華民国が満州連邦内の漢民族を煽り、連邦内で革命をおこそうとしても、それらは空振りに終わってしまう。それほどまでに円やドルは偉大であった。

満州連邦では機械化農業が盛んに行われる一方で大慶油田や遼寧の鉄鉱などの資源開発も盛んに進められていき、これらを使って外貨を獲得、日米からの投資とあわせて国内のインフラの整備や工業化にも力を注いでいった。

こうした経済的な発展は中華民国内でも知れ渡るようになり、中華民国を見限った漢民族が続々と流民として流れ込み、その安価な労働力を使い満州経済はさらに発展するというサイクルが作られていく。また、極東ロシア帝国と言う盾によってソ連共産党勢力からの圧力が大きく減った事もこの経済の発展に無視できない影響を与えた。

134: ホワイトベアー :2019/08/09(金) 00:53:38 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
こうした満州連邦の繁栄を良く思わない中華民国では日米満を敵対視して1924年に「国共合作」が行われる。これは日米と対立している共産主義勢力と手を結ぶことであり、それまで日米両国に少なからずいた国民党に同情的であった国民達も国民党に強い敵対視することになった。もっとも、この「国共合作」は成立からわずか3年後の1927年に国民党の実権を握った蒋介石が共産党排除のために起こした「上海クーデター」によって霧散することになり、結果として日米からの敵視しか残らなかったが。

国民党の情報はアメリカ戦略情報局や日本統合情報局、満州連邦対外情報庁によって絶えず収集され、定期的に三カ国の政府や軍部に報告されていった。

こうした報告によって日米満は蒋介石を全体主義的なナショナリストと判断、満州連邦も含めた中華統一を掲げている事から共存は不可能と判断、また、この情報の一部は財界にも流され、財界でも中華民国への進出を躊躇うようになっていく。

一方、蒋介石は妻であった宋 美齢の実家であり、浙江財閥の1つである宋財閥の力を借り、上海に強い足場を持つイギリスやフランスとの関係を強化していった。また、宋 美齢がアメリカでの留学経験があることを利用して日米を分断させ、アメリカを自国の味方とするためにアメリカでのロビー活動を実施していく。しかし、アメリカのテレビやラジオなどマスメディアに強い影響力を持っていた日本がカウンターを実施し、アメリカ全土にて中華民国のネガティブキャンペーンを展開した。

日本は蒋介石をアジアの征服を目論み、秘密警察や軍を利用して国民の自由を奪い、民意を無視して政治を行う独裁者としてアメリカ国内に広めていった。アメリカ政府や財界もこの動きを着かんではいたが、それを止めるどころか積極的に支援していった。蒋介石と組んでも短期的に利益は出せるだろうが、長期的には満州連邦を巡って衝突すると考えられたからだ。

欧州列強からの支援こそ得られたが、日米の分断には失敗し、さらに満州連邦での工作も上手く進まない事に苛立った蒋介石は軍事力の行使も検討したが、日米と言う二大列強を敵に回せるだけの軍事力は存在せず、また、自らの政権維持のために経済に力を注いでいる事からも当面は満州連邦に関しては棚上げすることを決定、ドイツや欧州列強の軍事支援や経済支援をもとに中国共産党は軍閥の征伐と国家の再編成を進めていき、来るべき日に備えることとした。

一部例外こそあるものの、世界は大戦後の混乱を乗り越え、平和と安定の時代を迎えていた。それがどれだけの薄氷の上のモノかを理解せずに。

そして、1929年10月24日、暗黒の木曜日として後の世に記録される日を発端としてついに世界恐慌が発生。時代は一気に動乱へと突き進む事になる。

135: ホワイトベアー :2019/08/09(金) 00:54:23 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
二六式要擊戦闘機
倉崎航空が史実のF-106のコンセプトを基に開発した機体。しかし、史実とは違い格闘戦能力向上のために20mm6連装回転式機関砲を一門搭載し、開発期間とコスト削減、さらに整備性恒常のために電子管制システムの簡略化などがなされ、最終的にはF-106とは似ているだけの別の機体となった。

(※2)
二四式戦闘爆撃機
倉崎や三菱のせいで影が薄かった中島が自らの社運を賭けてジェット推進型戦闘爆撃機として開発した機体。機体は日本で初めて機体内に爆弾倉をもった戦闘爆撃機であり、その爆撃能力は軽爆撃機というジャンルを不要にしてしまうほどであった。しかし、戦闘機としての本質を失った訳ではなく、単発戦闘機としては大きなエンジン出力を誇り、それを生かして機動力と搭載量を両立させている。

その汎用性から航空機数の削減をしなければならなかった日本陸軍航空軍の上層部の目にとまり、実質的な主力戦闘機として大量に配備された。

正式採用は1927年だが、二七式要擊戦闘機との差別化の為に試作機が完成した1924年の数字を名前にしている。

(※3)
二三式長距離地対空ミサイル
三菱が防衛省高等技術研究開発局と共同で開発した地対空ミサイル。MIM-3をそのモデルとしており、主に大日本帝国の戦略上及び戦術上重要な軍事施設や都市を防衛するための最終防衛線として各地に発射サイトを設営し、配置された。

(※4)
二九式長距離地対空ミサイル
倉崎と防衛省高等技術研究開発局が共同で開発した長距離地対空ミサイル。戦略爆撃機を迎撃するために開発されたミサイルであり、射程は約400kmと極めて長い。特徴としては、液体燃料ロケットとラムジェットエンジンの二段階で構成されていることで、液体燃料ロケットのブースターによって超音速域まで加速し、十分に加速した時点でラムジェットエンジンに切り替えられて飛翔する。陸軍内では長SAMと呼ばれている。主に九州や四国などに重点的に配備された。

二九式中距離地対空ミサイル
三菱と防衛省高等技術研究開発局が共同で開発いした中距離地対空ミサイル。MIM-27ホークを基として開発されたミサイル。配備開始が世界恐慌勃発と同じ年であるために配備は遅々として進まなかったが、後に国際的な緊張の高まりによって陸軍の高射部隊はもちろん海軍海兵隊などにも配備された。正式名称では二九式長距離地対空ミサイルと紛らわしいために陸軍内で中SAMと呼ばれている。

(※5)
二七式艦上戦闘機 紫電
三菱が開発した日本初の艦上超音速制空戦闘機。当初は憂鬱版疾風として開発される予定であったが、航空機搭載用のレーダーなどの開発が予定より大幅に早く終了した事もあって史実F-8を基に開発が進むことになった。

(※6)
二五式艦上攻撃機 紫電改
二七式艦上戦闘機の試作機であった二五式試作艦上戦闘機を基として開発された全天候対応型亜音速攻撃機。本機は二七式艦上戦闘機と多くのパーツを共有している事から調達コストを押さえる事に成功しており、安く調達できると言う事からその採用が決定した。

採用は二七式艦上戦闘機と同様に1927年であるが、そうすると名前が二七式艦上戦闘機と紛らわしい事もあって試作機である二五式試作艦上戦闘機が完成した1925年から名前がとられた。

(※7)
二発プロペラ機にレーダーを搭載した大型機。E-2をモデルとしており、空母機動艦隊の目として運用される。

136: ホワイトベアー :2019/08/09(金) 00:55:47 HOST:157-14-225-220.tokyo.fdn.vectant.ne.jp
以上になります。ようやくドイツ帝国の政治体制の構想をまとめられたのでこちらも近々第二次大戦に入れそうです。

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最終更新:2019年08月13日 11:11