9 :ooi:2016/04/11(月) 21:45:36
豪州+新西蘭転移ネタ3
円卓の味方増産計画~オスマン帝国の復活~
円卓は栄光ある孤立からの脱却を考えていた。
特に、前世の失敗から早い内に頼れる味方を増やしておきたいと考えたのだ。
何しろ、戦力が劣る状態で国際的孤立の厳しさを味わったからだ。
中東ではナチスドイツに勢力を伸ばされた反省から、1800年代頃からオスマン帝国と接触してオスマン帝国の梃入れを行って国力の強化を支援して1820年に英土同盟が締結された。
翌年からギリシア独立戦争が起きるのだが、英国はオスマン帝国に「発展の邪魔になる地域は独立させた方がマシである。」と伝えて、ギリシャ独立を承認させた。
同時に、「独立させた後に、ギリシャがオスマン帝国の発展したのを見て支援を要求しても断れ。ギリシャが粘るのであれば英国もギリシャを説得(恫喝)しよう。」とも伝えて、敵対して独立した国に甘い顔をしたらならないとも伝えている。
露土戦争はオスマン帝国が英国の支援でオスマン帝国有利の引き分けに持ち込み、サンステファノ条約はモンテネグロ、セルビア、ルーマニアの独立とルーマニアからベッサラビアのロシア帝国への割譲だけを認めるものとなった。
また、独立地域のロシア軍占領は英土同盟が圧力となって無くなった。
なお、ロシア帝国との領土争いは英国の支援を受けて近代化したオスマン帝国がバクーと云った資源地帯を維持する等、中東の要として君臨し続けた。
元気が有るのでガージャール朝ペルシア帝国とも戦っており、領土争いは英国の停戦要請が届くまで続いた。
未来に起きるであろう伊土戦争やバルカン戦争を考えてオスマン帝国の軍事力を発展させる為に序盤で下手に国力を消耗させたくないと考えたからである。

1911年に勃発した伊土戦争では英国は第一次世界大戦に向けて大規模な軍拡に取り掛かっていた為に大規模な軍事支援は出来なかったがオスマン帝国は英国の支援で強化された陸海軍を動員してイタリアに対して善戦していた。
1912年に日英同盟が締結されたのを機に、英国は日露両国も加えて伊土両国に和解を提案した。
ついでに、和解案を飲まないのならオスマン帝国支援として日英露が対伊参戦する旨も一緒に…。
オスマン帝国は自国が優勢だった事から乗り気であり、イタリアも敗戦国にならないのであればと飛びついた。
イタリアとしては飛びつくしかなかったとも言えるが…(苦笑)
この和解案によって、オスマン帝国はインフラ投資が遅れていたリビアをイタリアに売却する事が決定した。
イタリアは戦費に加えて痛い出費となったが、1928年に油田を発見した事で世界恐慌後には産油国として欧州における地位が向上するのである。

本世界のバルカン戦争は日英露がオスマン帝国の味方に付いていた事から早々にオスマン帝国の勝利となった。
その為、バルカン諸国は領土の割譲をされない代わりに賠償金を支払う羽目となり、10年程軍備の更新が不可能となる。

オスマン帝国はヨーロッパ諸国との戦いとは別に中東への進出を精力的に行い、ジャバル・シャンマル王国から領土を割譲する等の成果を上げた。
元々領有していた史実イラク、クウェート地域も含めて、史実における一大油田地帯をその版図に収めた事でオスマン帝国は生産量世界1位となってからは一度も首位を落とさないと云う最強の石油国家になるのである。

第一次世界大戦では英土同盟を理由にして、最初は連合国寄りの中立となり、「米国より安い!」を売り文句に石油をどんどん売って資金を調達した。
他にも多くの軍需品、民需品を売って連合国を陰から支えた。
この時得た利益はインフラ投資を中心に使用して基礎体力の増加を図った。

途中でブルガリアが侵攻して来た事から中立から連合国側として参戦した。
なお、ブルガリアは一撃で叩きのめした。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2016年04月17日 18:17