64 :ooi:2016/04/13(水) 17:34:15
豪州+新西蘭転移ネタ6
フランス共和国及びフランス連邦共和国について2
フランスは、史実と違い英国海軍に対抗して海軍の整備を比較的早く行う事になる。
第一次世界大戦後、フランス海軍は六六艦隊計画を掲げて戦艦6隻、巡洋戦艦6隻の配備を目指した。
フランス議会は戦災復興の途中である事から過度な軍拡への反対意見が多かった。
しかし、軍拡に賛成している議員は「ラマンシュ海峡(イギリス海峡)海戦後の悲劇を防ぐ為に軍拡は必要だ!」と言った。
これを言われると軍拡に反対する議員も下手に反対は出来なくなった。
この軍拡計画にはフランス国民も反対していたが、前述の強硬派議員の発言から徐々に賛成意見が増えていった。
フランス国民にとってラマンシュ海峡海戦で海軍が壊滅した後の、英国海軍による沿岸部焼き討ちは感情的に許せるものではなかったのである。
但し、一気に軍拡を行うのは本国の復興を行う事を考慮したら厳しいと云うのは強硬派も認めたので年間3隻の建造を4年間行う事が決定された。
なお、この計画はワシントン海軍軍縮会議の煽りを受ける事になる。

ちなみに、史実フランスが莫大な予算を掛けていたマジノ線であるが、本世界では40mm機関砲までなら防げる塀+機関銃陣地の様なものとなった。
元々、第一次世界大戦時に建設した要塞と防御線がドイツ帝国陸軍を圧倒した事から、現防御線の修復及び改築による強化で問題ないと考えたのである。
その為、マジノ線は敵の前衛部隊を重機関銃で疲弊させて主要防御線からの攻撃を自軍有利に展開させる攻撃的外周陣地と位置付けられた。
この防御線が実際に機能したかどうかはドイツ陸軍が攻めてこなかったので不明であるが、ドイツ陸軍の資料から防御線を迂回して攻め込むと云う幻の攻略案が発見されている。
なお、迂回して攻め込んだとしても精兵擁するフランス空軍によって大打撃を被る可能性が高いとも攻略案には記されていた。

ラマンシュ海峡海戦と沿岸部焼き討ち
1805年、トラファルガー海戦でホレーショ・ネルソン提督は円卓の努力で戦死を免れた。
また、当時の円卓メンバーは転生チートを使い英国が強化された事で強気になり、フランスの弱体化を狙って戦争を仕掛けたのである。
1828~29年にかけて2回行われた、ラマンシュ海峡海戦でホレーショ・ネルソン提督率いる英国海軍に海軍主力を壊滅させられた事でフランスは制海権を喪失、続いてやって来た英国海軍別動隊にルアーヴル、ディエップ、カレー、シェルブール、サンマロ、ブレストと云った沿岸部諸都市を焼き払われた。
1830年に7月革命が起きた事を契機にフランスは上陸作戦が行われる前に英国と講和条約を締結。
フランスは講和条約で賠償金5000万ポンドに加えて、仏領ギアナ、グアドループ島、マルティニーク島を英国に割譲されられた。

この敗戦による海軍壊滅と賠償金支払いによる財政の悪化は、史実や本編で領有したニューカレドニアを英国に先取りされる遠因となった。

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最終更新:2016年04月17日 18:34