558 :ライスイン:2014/04/02(水) 14:42:26
1941年4月 東京 夢幻会会合場所


「ついに同盟軍がロシアに侵攻するようだな。」

「ええ、300個師団以上が旧ポーランド・ロシア国境に集結中です。」

「ふんっ、北イタリアやアフリカにバルカンやギリシャなど各戦線が膠着しているというのに。」

「イタリアやトルコの奮戦のお陰でしょう。」

「まあ対価は貰ったがロシアへは相当支援したからな。わが国やアメリカが参戦するまで大丈夫だろう。」



            「日米露三国同盟~落日の欧州」08


 1941年4月1日、同盟軍は各地の戦線で膠着状態が続いていた。
北イタリア戦線ではドイツ軍は相変わらず要塞線を突破できず、フランス軍は辛うじて要塞線を突破したガムラン大将指揮下の
アルプス軍(装甲予備師団×1、歩兵師団×1、植民地歩兵師団×2、山岳師団×2)がトリノまで進撃したものの、反撃に出た
イタリアの反撃で敗れて壊走、おまけに戦車戦で装甲予備師団が全戦車を損失(※1)するという醜態を晒し、結局は
国境まで退却する事になった。

 アルバニア戦線では攻撃をクロアチア・ルーマニア・ハンガリー・ブルガリアなどに任せていた為、相変わらず攻撃を仕掛けては
撃退されるという光景が繰り返されていた。

  アフリカ戦線でもフランスはチュニジア・リビア国境を突破したがイタリア軍の遅滞戦術に引っかかり、更にイタリア海軍の
通商破壊で補給が不足しており、進撃速度は史実のイタリア軍よりも遅かった。
 エジプト方面でも停滞は続いていた。トルコがシリア・レバノンを制圧し、イラクでクーデターが発生して新政権が中立を宣言した為
、スエズの防御を固める必要が出てきていた。おまけにイギリスのモントゴメリー中将とドイツのロンメル中将の意見が衝突して連携が乱れる
ことも発生していた。そんな中でも攻撃は行われたが当然の如く撃退される。唯一ドイツアフリカ軍団だけは高い練度とロンメルの指揮で
イタリア軍を翻弄したが数と戦車の性能差(※2)から結局は後退している。
 エリトリアやソマリアでも相変わらずイタリアゲリラの跳梁跋扈が続いており、一部では呼び寄せた娘を”奪われた”同盟軍将官が
発狂して銃を乱射、付近の味方を殺傷した挙句に拘束されるという悲劇まで発生している。
おまけに地中海ではイタリア潜水艦によってイギリス戦艦バーラムが撃沈されていた

559 :ライスイン:2014/04/02(水) 14:43:03
そんな状況の中でついに同盟軍はロシアへと侵攻を開始した。
何故この様な状況下でロシアへと侵攻したのか・・・それは各国共に”そうするしかなかった”状況があった。
日米との関係悪化で南北アメリカやアジア方面からの資源の輸入が殆ど絶え、イラク新政権が中立化した事やインド全土で暴動が多発
しているお陰で狙っていたイランへの侵攻も困難になり、油田の確保が急がれていた(人造石油やルーマニア油田だけでは不足)。
そして戦線の停滞等で軍や国民の指揮が低下気味で早急な勝利を欲していた事もあった。
何より同盟軍はロシア軍を過小評価していて一気に大軍で攻め込めば勝利できると考えたのだ。

 ドイツ軍200個師団・フランス軍50個師団・イギリス大陸派遣軍30個師団(うちインド・アフリカ植民地軍20個師団 ※3)、
東欧諸国軍20個師団にスペイン軍5個師団と合計で300個師団の陸上兵力と多数の航空戦力が旧ポーランド国境からロシアへと進撃した。
 しかし国境地帯の防御を抜くだけで約1週間かかり、漸く突破できた頃には集まってきた充足率100%で完全装備のロシア帝国軍と
殴りあう羽目になった。トハチェフスキー、ジューコフ、コーニェフ等の将軍が率いる200個師団を超える大軍。戦車も新鋭の
T34/76JやKV1EJにBT8(※4)という強力な戦車が定数配備されており、同盟軍の主力戦車では対抗が困難だった。
空でもMe109E・FやスピットファイアⅤ、D520やVG33等の同盟軍機はYak9UやLa7等の高性能なロシア空軍機に苦戦していた。

 それでも植民地兵や新たに徴兵した兵を増援で送り込み、数に任せて強引に進撃。大損害を出しつつも進出を重ね、6月に入る頃には
北部ではバルト3国を宣戦布告なしに攻撃して占領(後にロシアへ亡命政権)しサンクトペテルブルクに迫っていた。
中部ではキーウまで100kmまで迫り、南部ではオデーサで攻防戦を繰り広げていた。しかしこの時点で同盟軍はガタガタだった。
戦車や火砲では質・量共に劣り、空からは大量のIL2シュトルモビク(性能はIL10相当)に襲撃され、更に後方に進入した部隊や
パルチザンに補給部隊を襲われ多くの物資を損失していた。さらにナチス親衛隊やフランス国家憲兵隊(※5)の捕虜への虐待・虐殺や
同盟軍部隊による略奪など匪賊同然の犯罪行為が多発し、余計に占領地住民の反発を買い占領行政に支障が出る事態になっていた。
 そんな中でロシア軍は残虐行為への報復として戦略爆撃機を用いた報復を実施した。
6月12日深夜、オデーサ近郊の空軍基地などから出撃したPe8およそ100機の大編隊は途中で二手に分けれ、ルーマニアのプロイェシュティ油田と
ハンガリーのセゲド近郊の油田を爆撃。夜間の為、多少効率が悪かったが迎撃を受けることなく通常爆弾の他に焼夷弾も混ぜた爆撃により
両油田は復旧まで半年以上かかる損害を受け、同盟軍の進撃速度や攻撃の勢いが更に落ち込む結果となった。
更にロシア黒海艦隊やトルコ艦隊によりルーマニア・ブルガリア沿岸に艦砲射撃を受ける。

560 :ライスイン:2014/04/02(水) 14:43:42
この事態に同盟首脳部は焦った。両油田は復旧まで半年はかかる。備蓄はそれなりにあるがこれからの攻勢を考えると不足している。
未だにリビアの油田は手に入らず、イラクの中立とインドの火祭りでイランの油田を手に入れることは出来ない。
中南米の植民地からは僅かながら油を入手できていたがベネズエラなどの産油国からは今までの所業により取引を拒否されている。
インドネシアはオランダが亡命政府を立てていて、周囲は日米の勢力圏でありそれを突破してインドネシアを確保するには
戦力が不足している。結局は油田が回復するまで攻勢を控えつつ戦線を整理することが決定された。


 9月20日、労働者や捕虜、植民地から連行した奴隷を無理矢理24時間働かせる事で完全ではないが油田を稼動させる事に成功した同盟軍は
攻勢を再開した・・・が殆ど進むことは出来なかった。同盟軍が攻勢を停止している間、ロシア軍も防衛線の増強や部隊の入れ替えなどに
取り組み、前線には300個師団近い戦力が集結していたからだ。同盟軍もロシア戦車を打ち破る為に新鋭の4号F2やチャーチル、B3(※6)等を
送り込んだが未だに性能では下回り、おまけに日米から供与された純正の97式やM4(M4A3E8)までもが出没し始める有様だった。

 そんな中でやっと朗報が入った。イタリアで独仏の工作で親独派のバドリオ将軍が反乱を起こしたのだ(※7)。
親独派で固められた2個師団を使い、密かに招き入れていたドイツ降下猟兵部隊や武装親衛隊と共に防衛線に篭る味方を攻撃。
そのおかげで独伊国境要塞線は大打撃を受けて遂にイタリア本土へドイツ軍の侵入を許してしまった。
予備兵力を大幅に投入することでヴェネツィア・ミラノ以北を占領したドイツ軍とバドリオ軍は仏伊国境要塞に立て篭もるイタリア軍を
包囲しつつ、占領地でローマ共和国の建国を宣言。初代総統にバドリオが就任し同盟への加盟とロシアなどへの宣戦布告を行った。
 しかし朗報はこれだけだった。各戦線では相変わらず停滞が続き、海軍も油不足で活動が低迷。それに加えてロシアが
ヴァシレフスキー中将が指揮する1個戦車師団・2個機械化狙撃師団を中核とするロシアアフリカ軍団をトルコ黙認の元、ボスポラス海峡を
通過し、イタリア海軍護衛の下にリビア入りするという事態まで発生した。これにより北アフリカでの戦局がかなり苦しくなる事が
予想されたが同盟各国は歩兵部隊(植民地歩兵含む)はともかく重装備の機械化部隊を送ることは東部戦線の状況から考えて不可能であった。

 結局、同盟軍は僅かに味方を増やしたものの、各戦線では殆ど進撃することが出来ず、攻勢をかけたはずの東部戦線でも目標であった
サンクトペテルブルク・キーウ・オデーサを占領する事は出来なかった。そして同盟各国を大幅な資金難が襲う。
ルーマニアやハンガリーの油田が回復し、中南米からも雀の涙ほどだが石油が確保できた。鉄鉱石などの資源も植民地や占領地などから
確保で来ている。しかし日米との貿易が途絶え、資金や人手が大幅に軍需につぎ込まれた事から民需が停滞し国民生活を圧迫していた。
ライヒスマルクやポンド・フランの信用は地に落ち、僅かな貿易にも大量の外貨(ドルや円など)や金塊が必要になってきていた。
国民からはこれ以上徴用出来ず、占領地や敵性外国人からの収奪にも限界が合った。
 そんな中、追い詰められた同盟、特にフランスはとある行動を起こし、それが日米の参戦へと繋がっていくのだった。

561 :ライスイン:2014/04/02(水) 14:44:19
※1:フランスの戦車はFT17やR35、H35が大半を占め、主力のS35やB1は僅かしかなくイタリアのM14/41やP26/40などや日本から供給された
   97式(純正)には対抗が著しく困難だった。

※2:ドイツアフリカ軍団は主力が1号・2号であり3号(37ミリ)や4号(24口径)が少数しかなかった。他にもイギリス軍から供与された
   マチルダ2やカヴェナンター、クルセイダーを少数保有していた。

※3:ガンジー率いる国民議会派を”同盟勝利後に英連邦に加盟する形で”独立させるとイギリス議会で議決して説得。10個師団以上を
   徴兵して欧州に送り込むことに成功した。但しボース率いる派閥はイギリスが約束を守ると思っておらず武装闘争を続行している。
   他にもアフリカ植民地から徴兵した部隊を多数送り込んでいた。

※4:T34/76J・KV1EJ: 日本からの技術提供で改良した型。日本製の65口径76.2ミリ砲と大型の3名用砲塔を備えている。
   BT8: BT7をベースに若干大型化し、57mmZiS-2対戦車砲を搭載したBT系列の最終型。

※5:ド・ゴール政権下で次第に親衛隊化が進み、各地で反体制派の摘発や捕虜収容所の管理・パルチザン狩りを行う組織に変貌していった。

※6:B1bisの75ミリ砲を36口径の長砲身砲に換装した改良型。

※7:元々親独だったことに加え、”ハニートラップ”や”資金援助”も加わり、一国の主になれるという野心も刺激された結果、
   配下の部隊を親独派のみに入れ替え、招きいれたドイツ軍と共に反乱を起こした。

次話:「日米露三国同盟~落日の欧州」09

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最終更新:2023年10月22日 13:06