532 :ライスイン:2014/03/21(金) 14:44:50
※欧州の扱いが物凄く悪いです。


西暦1944年6月6日 大英帝国 帝都ロンドン

この日、ロンドンは紅蓮の炎に包まれていた。

「何故だ、何故こうなったのだ!!」

首相であるエドワード・ハリファックスの絶叫が響き渡る。
周囲の閣僚や軍高官の表情も暗い。
空高く飛ぶ怪鳥の落し物で帝都は燃え、迎撃に飛び立ったRAFの精鋭は護衛の猛禽に撃墜されていく。
そして本土にも侵略者の尖兵が降り立ち、ロンドンへと迫ろうとしている。

「何故なのだぁ!!!!」

再び絶叫するハリファックス。同じような叫びがパリとベルリンでも上がっていた。



      「日米露三国同盟~落日の欧州」01



 切欠は第1次世界大戦であった。
大陸化、そして夢幻会が主導権を得ていた日本は当時は機能していた日英同盟に基づいてドイツへと宣戦布告。
指揮権問題が解決しない中、陸軍は先遣隊として5個師団を基幹とする部隊を送ることを決定。
海軍は船団護衛とは別に扶桑型戦艦4隻・金剛型巡洋戦艦8隻を中心とした主力の派遣を決定した。
それぞれの司令官も乃木希典、東郷平八郎の2人を送るという力の入れ様だった。

しかし・・・そこからが悪夢の始まりだった。


欧州に到着した陸軍はそれまでの無謀な突撃により消耗していたフランスの指揮下に組み込まれてしまう。
日露の英雄が率いている事で多少の敬意は払われていたがそれでも黄色人種への侮蔑は変ることなく、
早々とヴェルダン要塞へと回されてしまう。そこを悲劇が襲った。

 1916年2月21日より始まったドイツ軍のヴェルダン攻撃は凄まじく、フランス軍は早々に士気が崩壊。
兵士の反乱や逃亡も始まり、遂には要塞司令官が逃亡する事態にまで発展。
取り残される形になった帝国陸軍5個師団は要塞の一部を奪われるも兵力差からは考えられないほど奮戦。
派遣軍第2陣3個師団及び早期参戦を果たしたアメリカ陸軍1個師団(ダグラス・マッカーサー准将指揮)が
到着するまで辛うじて持ちこたえるも5個師団の内9割が戦死・行方不明になり、乃木大将も戦死してしまう。

 海軍についても悲劇が発生していた。1916年5月31日に勃発したユトランド沖での海戦である。
英国側補給担当の差別的な扱いから燃料の補給が遅れ、グランドフリート本隊や巡洋戦艦部隊に送れる形で出航。
しかし先に出撃したイギリス艦隊にUボートの猛威が襲う。
巡洋戦艦部隊の旗艦ライオンが雷撃によりビューティー中将を乗せたまま沈没。
この知らせを受けたジェリコー大将は急ぎ合流を命令。そして合流した矢先にまたしてもUボートが襲い掛かった。
雷撃によりインディファティガブル、クイーン・メリー、インヴィンシブルを損失。
旗艦アイアンデュークにも雷撃があり、回避には成功したが揺れによりジェリコー大将が頭部を強打し錯乱。
そして恐慌状態に陥った彼はなんと撤退を命令。更に此方に向かっている日本艦隊に対して後に悪名を得た電文、

     「主たる我ら白人に奉仕する有色人種の義務を果たせ」

を送り、大きく迂回しながら引き返してしまう。これは後に”ジェリコーターン”と呼ばれ、有史以来最悪の
海戦機動として記録される事となる。

533 :ライスイン:2014/03/21(金) 14:45:26

 そしてこの電文が日本艦隊で受信したのは正にドイツ大海艦隊との戦闘直前であった。
通信参謀から渡された文を読んだ東郷大将は怒りを抑えつつ返電をするよう命令。内容は

「イギリス海軍何処にありや、全世界は知らんと欲す」  であった。

海戦自体は新鋭艦、それも36cmという大口径砲を揃えた日本側の奮戦で当初は互角の戦いであった。
しかし数の差に押され損害が出始め、旗艦扶桑も撃沈され東郷大将も脱出できずに艦と運命を共にする。
それでもあまりの損害にドイツ側に撤退を決断させる事に成功したが終了後、日本側で生き残った主力艦は
大破した巡洋戦艦金剛のみという有様だった。

 これ等の経緯、そしてフランス高官の陸兵追加派遣要求に加えフランス新聞社の差別的な報道も重なった結果、
同じようにフランス指揮下で損害が続出していたアメリカと共同で独自指揮権を要求。激しい交渉の末、1916年末に
日米とも独自指揮権を得る事に成功。また副産物として日米両軍の交流が始まり、後の友好関係に繋がった。そして・・


 1918年3月21日、ドイツ軍が最後の大攻勢”カイザーシュラハト”を発動する。
ロシア帝国との講和(※1)及びイタリア戦線の膠着(※2)により兵力を転用した大攻勢により連合軍は混乱に陥った。
それでも英米仏の主力がパリを防衛し手薄になっているベルギー方面から日本軍(と米軍の一部)が攻勢をかけることが決まった。
そして日本軍がベルギーを解放しドイツ国境に迫った頃、パリ方面で異変が発生した。
大流行したインフルエンザにより連合軍及びパリの都市機能がマヒ状態に陥っていたのだ。
これがこの戦争を終結させる要因となった”フランス風邪(※3)”であった。
植民地に派遣されていたフランス軍部隊が感染原因となったこの風邪はパリ市内で爆発的に感染。
パリ周辺に展開する連合軍の大半が行動不能になり、時のフランス首相クレマンソーはイギリス首相ロイド・ジョージと極秘で
会談し休戦交渉に入ることを決定。しかしこれは日米に知らされることはなかった。
 そして日米政府に休戦交渉の件が伝えられたのは発表の1日前。
この時点で日本軍はケルンを占領していた。



※1:土壇場でニコライ2世が講和をし、その後に改革を行う事を決断。1918年3月2日にドイツと講和(史実と同じ内容)し、
   イギリス型の立憲君主制を柱とした改革を実行。これにより革命運動は沈静化し一部は帰順した。

※2:この時、駐在武官だった嶋田繁太郎が1個小隊規模の陸戦隊と共に観戦武官として前線を視察中、防衛線を
   突破してきたオーストリア軍との戦闘に巻き込まれるも全員無事に生還している。

※3:当初は自分達の失態を誤魔化す為にアメリカ風邪という名称を使用し盛んに宣伝。後に発覚してアメリカを激怒させた。

次話:「日米露三国同盟~落日の欧州」02

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最終更新:2014年04月03日 23:33