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1943年1月  東京・夢幻会会合場所


「漸く大勢を立て直せましたね。」

「あれから毒ガス攻撃は一切なしか。報復と定期便が効いたな。」

「追い詰められたらやらかしそうですが・・・。」

「その時には”神の炎”が完成しているよ。」

「連合各国も反撃に移るそうです。」




                   「日米露三国同盟~落日の欧州」14



 1943年1月1日、連合は年明けと同時に防御から反撃へと移行した。
一連の毒ガス攻撃以降は防御に徹し、その間に被害の回復と新兵器の実戦配備、そして同盟の植民地攻略を行っていた。
スーダン等のアフリカ中央部の英植民地は北アフリカでの敗北と制海権の損失による補給途絶を受けて駐留英軍は同地を放棄し
南アフリカまで撤退。フランス領マダガスカルは補給の途絶や原住民の反乱に加え、援軍の望みも絶たれて脱出すら不可能になった為
自分達から連合に降伏を申し出た。

 ベルギー領コンゴ等は日米の軍事顧問団による指導や援助及び工作で成立した現地住民による解放軍が質・量共に現地ベルギー軍を
圧倒。凡そ1ヶ月ほどの戦闘で全土を解放した。この時に今までの苛烈な支配への反動で多少の過激な行為(※1)が発生してしまっていた。
 シエラレオネやゴールドコースト、スペイン領サハラはリベリアを拠点にした米軍によりアッサリと陥落。スペインが併合した南部の
旧ポルトガル植民地も占領したマダガスカルを拠点にした連合軍に上陸されて風前の灯となっていた。

 南アフリカ共和国では本国からの補給途絶により武器も満足に供給出来なくなった英軍及び南アフリカ軍は圧倒的多数の黒人反政府軍
に敗北を重ねていた。また白人住民の大半も投降ではなく武器を持っての抵抗を選択した為、悲劇が多数発生した(※2)。
そして追い詰められた英軍・南アフリカ軍は逃げ出した白人住民と共に南部のケープタウンに立て篭もり(※3)、徹底抗戦することになった。

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そしてイタリア領エリトリア・ソマリアでは周辺の植民地攻略で完全孤立した現地の同盟軍を艦隊やエジプト等からの航空支援を受けた
駐留イタリア軍が奮闘しほぼ独力で奪還に成功していた。これは完全孤立や補給所の襲撃、工作による食中毒や下痢の大発生(※4)などで
現地の同盟軍が極端に消耗していたからであるが、他にもイタリア系の同盟軍将兵の寝返りや”撃墜した同盟軍高官の夫人・令嬢”(※5)からの
情報提供。更には一部の部隊が行った

   「降伏すれば収容所で毎日紅茶が飲めるぞ。」  「わが国のピザ・パスタ料理や日本の糧食を食べられるぞ。」

といった呼掛けに応じた英軍将兵の集団投降も要因の一つであった。

 インドでも首都ニューデリーで決戦を挑もうとした英軍・国民議会派だが完全包囲されたお陰で食糧事情が悪化。そんな状況下で行われた
強制徴収で抵抗した市民に英軍・国民議会派が発砲し多数の死者が出たことで市民が暴徒化。そんな中で潜伏していたボース派が市民に武器を配りながら
各所で破壊を工作を実施。それを合図に攻撃を開始した日本軍(朝鮮王国軍1個師団含む)・ボース派によりあっけなく陥落。
英軍は司令部を中心にして残された戦車などを使って日本軍到着まで持ちこたえて投降したが国民議会派はそれに失敗。警備兵に裏切られた挙句に
暴徒に捕まってしまい、ガンジー以下の国民議会派幹部は市内の電柱に吊るされてしまった。


そして肝心の反撃は3箇所、イタリア・トルコ・ロシアにて始まった。
まずロシアではオデッサ・キエフ・ミンスク・サンクトペテルブルクの線から最新装備で固めた300個師団にも及ぶロシア帝国軍が
航空支援の下、一斉に進撃を開始。新型であるT34/85やJS2、SU100等の強力な装甲戦力を多く揃えたロシア側に対して同盟軍はお寒い状況だった。
補給は滞りがちで冬季装備も不足、おまけに毒ガスや略奪のお陰で占領地の住民を完全に敵に回し、パルチザンの活動も酷くなっていた。
それに新装備のほうも辛うじてティーガー1を200両近く送り込んだがそれでもJS2に対しては優位とは言えず、また各軍集団に対して分散して
配備された為、戦局には殆ど寄与していなかった。また真の主力である4号戦車だが未だ半数以上をF1までの旧式が占めている状況だった。
 ロシア軍の攻撃は完全に奇襲となり、油断していた同盟軍は敗走した。しかし一部のドイツ軍部隊は総統閣下の死守命令もあり頑強に抵抗したが質・量共に
圧倒的なロシア軍を前にして次々と消滅していった。
 反撃開始から1ヶ月経過する頃には同盟軍は100キロ以上も後退。しかも死守命令のお陰でホトやバルク、クライストにクルーゲといったドイツ軍の名将が
次々とヴァルハラに召されて行った。

 次にトルコ戦線ではイスタンブールから出撃したトルコ軍50個師団(アラブ各国の援軍及び義勇兵含む)がギリシャ各地を次々と占領。
日米から供与された戦車を先頭に進撃するトルコ軍に対してギリシャ軍及び同盟軍(※6)は戦えば必ず負けて後退を重ね続け、僅か1月で
全土を制圧されてしまった。またトルコ軍のアテネ占領時に軟禁されていたギリシャ国王だが解放されて直ぐに戦犯として逮捕され、イスタンブール
へ連行された。またギリシャ政府だが全土を占領されてからはドイツに亡命、自由ギリシャとして付き従った自由ギリシャ軍5個大隊(総兵力)を率いて
同盟側で戦争を継続する事になった。

 そしてイタリア戦線では米軍とロシア・イタリア軍団(アフリカ軍団から改称)の増援を受けたイタリア軍がゆっくりではあるが順調に進撃。
凡そ1ヶ月ほどで毒ガス攻撃前の防衛線までを回復。同時にコルシカ島も占領していた。

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その間、同盟各国の海軍・空軍の動きは不活発だった。
反撃を開始した連合軍地上部隊への攻撃や防空任務で磨り減り、辛うじて生産した新型機(※7)も定期便からの本土防空で消耗。
そして無茶な開発命令による混乱や植民地損失による資源輸入の途絶による生産減少もあり、開発・生産は遅れていた。
 海軍もドイツ海軍は主要軍港を潰されて建造中の艦が全て破壊され、艦艇の修理機能も完全に損失。
おかげで現時点で生き残っていた艦隊全てを英国スカパフローに移していたが移動中に機雷と潜水艦により損失を出していた(※8)。
フランス海軍は地中海で生き残っていた艦艇全てをブレストに移そうとはしたが移動中に米機動部隊に捕捉され文字通り全滅。
スペイン・ギリシャ・ベルギー・ルーマニア・ブルガリアの海軍は既に消滅し、主力の筈の英海軍も機雷除去が進まず、燃料不足もあり
港に引き篭もっている状態だった。

 また英国本土の状況だが植民地からの食料・資源の輸入が途絶えて飢餓が始まりつつあった。辛うじてフランスから輸入は出来ているが
それも通商破壊の影響で滞りがちだった。この影響で学校の校庭やゴルフ場、各家庭の庭や空き地、更にはバッキンガム宮殿の敷地内といった
ありとあらゆる場所が畑と化していた。会社の倒産や個人の破産も相次ぎ経済は極度に悪化。しかし困窮した人間が次々と(食事目当てに)志願した
お陰で陸軍及び郷土防衛隊(※9)だけは兵力を大幅に拡張できていた。


※1:ベルギー兵士に対するオーバーキルや抵抗を続けた市民に対する処刑など。但し支援元の日米の影響やそれらへの配慮からか女子供は抵抗しない限り
   丁重に保護されていた。

※2:自らの土地や資産を守ろうとした為と劣等人種などに降伏できるかという白人優越主義的なプライドもあり、女性だけでなく子供まで銃を手に取り
   抵抗した。この為、虐殺だけでなく性犯罪も多数発生し、戦後に混血が増える理由の一つとなった。

※3:「第2のアラモ」や「白人世界の自由の砦ケープタウン」を呼称していた。但し兵力は1個師団前後で重装備は殆ど無かった。

※4:調理師に化けた多数のイタリア工作員による反攻。下剤だけでなく腐った食材なども使われた。

※5:イタリア軍兵士による”特殊工作”の成果。なお”撃墜された同盟軍高官の夫人・令嬢”の殆どは戦後に祖国へ帰還せず、自らを”撃墜した”
   イタリア兵と結婚(再婚)した。

※6:ギリシャ駐留の同盟軍は殆どが治安維持目的の東欧諸国軍で戦車はFT17や1・2号しか保有しておらず、ギリシャ軍もそれまでの戦闘で消耗しており
   戦車は殆ど保有していなかった。

※7:Me109G・Fw190D(独)、タイフーン・テンペスト・ファイアフライ(英)。フランスは開発が大幅に遅れ、輸入やライセンス生産を検討中。

※8:装甲艦リュッツォー、アドミラル・グラーフ・シュペーを機雷で損失。戦艦バイエルン、バーデンは機雷で損傷した所を米潜水艦アルバコアに撃沈。
   無事にスカパフローに逃げ込めたのはビスマルクだけとなった。

※9:本土防衛の為に編成された民兵組織。主な武装は備蓄されていた旧式装備の他、ホームガードパイクに手製の手榴弾や猟銃など。
   中にはブラウンベスなど博物館から出してきた様なマスケットまで用いられていた。

次話:「日米露三国同盟~落日の欧州」15

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最終更新:2014年05月18日 21:39