487 :198:2014/06/24(火) 12:00:15


中華動乱とその影響


1913年11月11日呉。
大日本帝国海軍が世界に誇る呉鎮守府は、差し迫った冬の寒さをものともしない人々の喧騒によって大いに賑わいちょっとした祭りの様相を呈していた。
人込みの中には大使館員や記者らしき外国人もちらほらと見え、皆一様に港を指さしながら口々に目前の光景を語りあっている。

その中に日本海軍の若い士官が二人。

「――いやぁ、大したもんだな」
「まったく、金があるというのは良い事だ」

イギリスから回航されてきた金剛型長女・金剛を筆頭に超弩級戦艦と超弩級巡洋戦艦が合わせて『8隻』。
呆れたように呟く海軍士官二人の視線の先に、計80門の45口径36cm砲を誇らしげに掲げて浮かんでいた。


日露戦争の終結と満州鉄道株式会社の成立による周辺情勢の安定は日本海軍の拡大傾向を一面で鈍化させ、別の面で強化していた。

南北シナ海を越えてイギリス・オランダ、太平洋を渡りアメリカへと物資人員を輸送し、日本大陸と中華大陸の間で頻繁に資源・物資・兵力を往復させて満鉄利権を管理運営せねばならない大日本帝国にとって造船海運能力の拡大は必要不可欠な投資であり、それによって拡張された造船整備能力はそのまま海軍の拡大素地として反映されたものの、同時に民間船建造と満鉄整備に財政を圧迫されて海軍の直接的な拡大は香取型準弩級戦艦4隻就役、薩摩型・河内型準弩級戦艦の全艦建造廃止と言う非常に低調なものに抑えられる。

これは相互参戦を組み飲んでより強固に改定された日英同盟や満鉄に参加する米蘭両国、日露協約と満鉄株式の購入により準同盟国となったロシアといった列強の存在により、独仏と言った他の列強が牽制される事で日本の安全保障が確約された事も大きい。

満鉄を通じて日本国内に流入する富と資金は大型艦を多数同時に建造するする事を可能にする経済力と建造力の裏付けとなり、日本海海戦で伝説となった八八艦隊の運用方針を基本に、技術の進捗に応じて戦力を改良し保持していくという日本海軍の方向性はイギリスが引き起こしたドレットノートショックによって一気に加速していく。

もはや旧式となった前弩級・準弩級戦艦では帝国の繁栄と臣民の安全を護持できない!

強大な仮想敵の喪失により拡大を抑え込まれていた日本海軍はそう叫び、艦隊を丸ごと入れ替える勢いで艦艇建造を開始する。

まずは英国の進んだ建艦技術を学ぶべく金剛型巡洋戦艦の建造を英国に依頼、その設計図を基に日本国内でも3隻の建造を行って4隻を揃える事とし、更なる造船技術習得、設計経験の獲得を目的に日英共同で扶桑型戦艦を設計する。
この日本海軍の建艦計画に英国造船業界は大喜びで協力した。

何しろ金のかかる戦艦の設計と建造を他人の金でやれるのだ。
日露戦争の『三笠』建造を筆頭に他人の金で最新技術の実用試験をするのはもはや英国造船業界の習性でもある。
重油専燃缶と水平防御強化、そして高速発揮という日本海軍の要望を可能な限り取り入れ、金剛型は45口径36cm連装砲4基搭載の重装甲巡洋戦艦として、共同設計を行った扶桑型は45口径36cm三装砲4基搭載の高速戦艦とも呼ぶべき戦艦として誕生する。

すでにこれらの艦を改良し25ノットの快足を獲得させた出雲型戦艦・伊吹型巡洋戦艦各4隻の建造が始まっており、日本海軍の艦隊整備は超弩級戦艦群による『第二次八八艦隊計画』としてその完成を見る。

急激かつ強大な日本海軍の艦艇建造は当然の如く太平洋に利権を有する列強諸国の危機感を刺激しており、アメリカ合衆国における戦艦建造計画を促進させ、ドイツとの建艦競争に奔走するイギリスは多少の小言を漏らしながらも日本と共同設計した扶桑型の設計を参考にクイーン・エリザベス級戦艦8隻の建造を開始していた。

488 :198:2014/06/24(火) 12:01:50

「原型艦の完成も待たずに戦艦の量産を開始するとは、金があるのは本当に良い事だ」
「戦艦・巡洋戦艦合わせて16隻。大正の八八艦隊か・・・何が起きても安心だな」

大日本帝国海軍最新鋭の艦隊を評する海軍士官二人の砕けた口調には、どこか呆れたような感心したような妬ましいような複雑な響きがあった。

「何があっても、か――支那は結構滅茶苦茶になってるみたいだが?」
「あれはもう中華の伝統行事だろう、こっちに飛び火しない限り日本の『何か』じゃない」

1913年3月より開始された孫文国民党による袁世凱打倒の武力闘争は双方を支援する列強各国の思惑を超えて、中華全域を混乱の坩堝に叩き込んでいた。

袁世凱率いる北洋軍閥が無人の野を行くが如き連勝を続けるなど、彼らを支援する満鉄参加国でさえ予想も期待もしていなかったのだから混乱するのは当然といえるだろう。

その主たる理由は北洋軍閥が曲がりなりにも統一した兵站体制と指揮系統を確立したのに対し、その交戦勢力たる国民党のそれが著しく混沌としていたからだ。

満鉄と言う意思疎通機関が存在する日英米蘭露が一定の秩序をもって北洋軍閥を支援する一方、満鉄参加国への反発――というより北洋軍閥利権に食い込めなかった事による消去法的選択――から場当たり的に始まった列強の支援を受ける事になった国民党はその足並みさえも満足に揃えられないまま敗退を続けた。

強力な中央集権を主張する孫文と、地方自治と緩やかな連合体を主張する連省自治派や独立志向の軍閥が入り混じる国民党を仏独伊、さらには日米といった満鉄参加国の民間資本までがバラバラに支援した結果は悲劇を通り越していっそ喜劇的ですらあった。

3月に江西省・江蘇省・広東省・広西省・安徽省・四川省・福建省・湖南省・貴州省・雲南省・上海・重慶・南京で始まった国民党による武力闘争は4月までに四川省・貴州省・雲南省・広西省・重慶以外の沿岸各省が北洋軍閥によって平定される。

黄興を始めとした国民党有力者が何名も捕殺され袁世凱による中華民国統一も近いと見られた7月、事態はさらに混迷する。

ドイツ・イタリアに支援された国民党の一派が孫文の指示を無視して西方へと進み、チベット人アムド自治区を制圧して青海省の設置を宣言。
彼らは正統なる中華の回復を謳いながら西進を続け、10月には孫文の制止を振り切ってトルキスタン共和国への侵攻を開始する。

独立を獲得したばかりのモンゴル・チベットが動揺し、独立を保障していたイギリス・ロシアが怒声を上げるより早く、フランスとアメリカ民間資本に支援された国民党の連省自治派及び北洋軍閥の一部が雲南省・広西省・広東省を占拠、華南自由連合と呼称して袁世凱・孫文両勢力から離脱する。

二転三転する中華情勢に列強各国の介入が鈍化する中、配下の裏切りに怒った袁世凱と孫文の間でなし崩し的な停戦合意が行われ、袁孫共同での華南自由連合征伐が開始されるも、双方の討伐軍がそのまま華南自由連合に寝返る醜態を晒してしまう。

489 :198:2014/06/24(火) 12:03:11
「将兵が武器を抱えて戦場で丸ごと寝返るとか・・・」
「いつまで経ってもあの国は戦国時代だな」

二人の海軍士官が呆れる通り、袁世凱北洋政府、孫文国民政府、華南自由連合、国民政府の制御から外れた青海派、そしてそれら大勢力の間で勢力拡大を目指す地方軍閥が割拠するという中華大陸の情勢は、春秋戦国もかくやというほど乱れていた。

「国民党青海派のトルキスタン侵攻、成功すると思うか?」
「日露で散々叩いたとはいえロシアは大国だ。イギリスだって黙っていたら大英帝国の沽券に係わる。
 列強二ヶ国に国民党の過激派程度じゃ話にならん」
「オマケに満鉄参加国の全面バックアップじゃ、ドイツもイタリアも成功しない事は判ってるはずなんだがな」
「青海派は使い捨てで、最終目標はロシア・イギリスへの嫌がらせなんだろう」
「中央アジアで騒ぎを起こして欧州方面の英露の圧力を下げる?」
「そんな真面目な外交レベルじゃなく、純粋な嫌がらせのような気がするが」
「嫌がらせにしても・・・時期が悪いな」

独立保障という面子を真正面から潰された英露両国は孫文国民党を詰問しつつトルキスタン支援と派兵の準備を進めており、満鉄を通じてトルキスタンへ派遣する満州・モンゴル人義勇兵の編成を開始していた。

騎馬民族を中心に構成された義勇兵達の士気は侵略してきた中華民国へ鉄槌を下すとあって非常に高く、使い方を誤れば民族紛争の種になりかねない危うさを含んでいるほどだという。

「満鉄はついに傭兵まで売り出したし、やりたい放題だな」
「満州王国軍の実戦訓練も兼ねてるらしいぞ、あの義勇兵部隊・・・ん?なんだあれは?」

人込みから上がった歓声に海軍士官達が視線を向けると、軍港に似合わぬはしゃいだ声で『回航記念デース!』とか『なのです!』と言って艦隊を背景にポーズを決めている露出の高い恰好をした女学生らしき集団がいた。

「良くあの恰好で寒くないな。しかし何故呉の、しかも港でコスプレやってるんだ?写真も撮れんだろうに」
「・・・艦娘・・・」

どこか茫洋とした表情の士官が何故か申し訳なさそうに視線を逸らすと、白手袋を付けた士官が呆れたように溜め息を吐いた。

「・・・また辻か」
「いや、流石にそれは濡れ衣だ」
「だがお前らの仲間の責任なんだろう?」
「今はお前もその仲間だよ」
「――ふむ、あの不幸そうな娘さんちょっと可愛いな」
「一般来客を口説くなよ、面倒なことになっても知らんぞ」
「ふん、『宰相』閣下は女性相手の戦は腰が引けてますな」
「おい、山本」
「まだ山本じゃないぞ、嶋田」

軽口を叩き合う彼らの姿は、海軍士官など有り触れている筈の軍港においてごく自然な存在でしかない。
しかしまるで生まれた時からその服を着ていたかのような海軍制服の着こなしは、三十手前にしか見えない彼らの若さを考えると何か奇妙な違和感を抱かせた。

490 :198:2014/06/24(火) 12:03:48

1913年11月末にロシア軍によるトルキスタン防衛のための兵力派遣が決定する。
孫文の必死の言い訳を半分以上利用し『国民党の名を騙る武装勢力の討伐』という体裁を整えることで中華民国への宣戦布告を避けつつ

、『トルキスタン防衛』という立派な名目を掲げての派兵決定であった。

動員が遅いというロシアの欠点と中央アジアの冬に悩まされながらも、米英と満鉄の援助によって12月には中央アジアを中心に集めた兵力をトルキスタンに送り込む。

もっとも、トルキスタン共和国の住民もただ中華民国青海派に侵略されていた訳ではない。
彼らは誇り高い騎馬民族らしく馬を集め、英露から提供された武器を装備して青海派との戦闘を繰り広げていた。

日露戦争の際の秋山好古中将の騎兵運用に発想を得たと言われるトルキスタンの騎兵レジスタンスは、主に青海派の貧弱な補給線を狙って攻撃する事で体力を奪っていき、ロシア軍が戦闘に参加し始めるとトルキスタン全土から中華の勢力を駆逐するのも直近になると思われた。

騎兵レジスタンスの一部が襲撃対象まで秋山騎兵軍団を真似て、ロシア軍の補給線を襲撃し始めるまで。

トルキスタン共和国独立でロシア領から移民してきたイスラム教徒にとってロシア人は敵。
そもそもロシア人がやってきて喜ぶ中央アジア人はいない。

単純な論理ではあるが彼らが時期も事情も考えずにロシア軍まで攻撃し始めたのには、客観的な理由もある。

『このままロシア軍を放っておいたら英露の緩衝国としてようやく独立を獲得したトルキスタンの自主性は完全にロシアに奪われてしまう』
『トルキスタン共和国を中華民国からの独立させたのは、いずれ東トルキスタンまで併合する為のロシアの陰謀に過ぎない』
『ロシア軍内部では将兵がトルキスタン征服に気勢を上げている』

根っこも葉っぱも十分に生えた噂が、本来中国語とドイツ語を喋る商人によってトルキスタンの大地にばら撒かれていたのだ。
そして噂が育つ肥料はロシア自身が大量に持っていた、というか流れている噂のほとんどは噂ではなくロシアの本音に近い。

結局のところロシアがこれまで行っていた強欲な周辺侵略の記憶が、ロシアの善意を躓かせたと言っても良いだろう。

しかもロシア領西トルキスタンの総督府が持つ強大過ぎる権限と自負が邪魔をしてタシケントからサンクトペテルブルクへの報告が遅れてしまい、ロシア政府が気付いた時にはトルキスタンでの戦闘はロシア軍と騎兵レジスタンスと逃げ回る青海派という三つ巴の泥沼になっていた。

助けに行ったはずの小国と取るに足らない弱小勢力に虚仮にされたまま列強の一画が引き下がる訳にはいかない。
トルキスタン人レジスタンスの討伐こそ行われなかったが、兵力を中央アジアに増強する事で国内を安定させ、満鉄が編成した満蒙義勇軍を中心に投入する事により中華勢力の排除を計画する。

これによりさらに複雑化した中央アジア情勢を世界は注視していく事になる。


1914年6月28日に一発の銃声が鳴り響くまで。

次話:世界大戦勃発

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2014年06月24日 22:38