139 :198:2014/07/02(水) 22:30:07


ヴェルダンの侍


1916年2月21日。
午前7時15分、1000を超えるドイツ軍の砲門が一斉に火を噴き、ドイツ軍20個師団が攻勢を開始する事でヴェルダン要塞攻略戦が開始される。

不平を漏らしながら陸を泳ぎ回る海兵のおかげで中央アジアの兵力をヨーロッパに送り込めなくなったロシア帝国は東部戦線における積極性を完全に喪失しており、ドイツは西部戦線へと兵力を引く抜くことが可能になっていた。

停滞した東部戦線に睨み合えるだけの戦力を残し、西部戦線で攻勢に出る事でフランスの消耗を誘い、戦争からの脱落を図る。
ドイツ軍参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハインが消耗戦として計画し、皇太子ヴィルヘルムがシェリーフェンプランの延長線上にある要塞攻略として実行したこの戦いは、計画者と実行者の認識の齟齬により悲劇的な損害を双方に与えていく。

ヴィルヘルム皇太子の積極的な指揮もありドイツ軍は一日目にフランス軍防衛線の第1陣の重要拠点を奪取、一気に第2陣へと襲い掛かりその一部を突破する。
その翌日にはさらに占領域を拡大し第3陣の一部の永久堡塁、ヴェルダン付近の最高所であるドォーモン堡塁を占領。
フランス軍のフィリップ・ペタン将軍は逐次新規部隊を投入してドイツ軍に抵抗していたが、東部戦線より引き抜いた戦力で任意に交代して戦闘に参加する余裕を得たドイツ軍は停止する事無く攻撃を続け、3月の終わりにはヴェルダン要塞全域の占領を成し遂げてしまう。

しかしヴィルヘルム皇太子はなおもヴェルダン要塞攻撃命令を下し続ける。

要塞と共に失われた膨大な戦力にフランス軍が顔を青くして戦線の補充と再編に走り回り、ファルケンハインが自軍の損害に嫌気が差し始めた4月になっても皇太子の要塞攻撃命令は止まらなかった。

「あの忌々しい太陽の旗を、早く引き摺り下ろせ!」

大日本帝国欧州派遣軍。
その先遣隊である薩摩会津の二個師団40000名が籠る堡塁が未だに陥落していなかったからだ。

指揮官は帝国陸軍大将・柴五郎。

北京籠城戦の伝説を築き上げた男が、完勝へと伸ばすドイツ軍の指先を傲然と払い退けていた。

140 :198:2014/07/02(水) 22:30:51

4月12日重慶。
白朗率いる青海派により占拠された国民党の根拠地は、今や列強への不満の捌け口を略奪と言う形で晴らさんとする餓狼の群れが集う現代の梁山泊と化していた。

満州鉄道警備部特別騎馬警備隊――列強の打算と王国宰相の根回しによって甦った満州八旗の手による苛烈な匪賊討伐は大多数の人間を恐怖で震え上がらせたのだが、その恐怖により殺戮を行う騎馬民族とそれを操る列強への敵愾心を掻き立てられた漢民族も確かに存在したのである。

『偉大なる中華を取り戻すため、愚劣な蛮夷の討伐を行い漢民族の誇りを取り戻す!』

発言者当人も信じていない檄文と惜しげもなくばら撒かれる金銭に惹かれ、列強とその支援を受ける中華勢力に不満を抱いた漢民族達は各地からこの地へと終結し簡単な武装を受け取って訓練を受ける。
北洋政府勢力圏から匪賊が排除されるのを上回る勢いと量で国民党=白朗党への参加を志願する人間が重慶へと流れ込み、白朗党戦力は確実に増大を続けていた。

「満族の驕慢は目に余ります!一刻も早い反撃の開始を!」
「――諸君らの意見は良くわかった。反撃の時は近い。
 それまで身体を休めて英気を養ってくれ」

満蒙の騎兵連合に追い散らされて命からがら重慶へと逃げ帰ってきた匪賊達の報告を聞き終えると、自称「扶漢討夷司令大都督」白朗は彼らの勇戦をねぎらう言葉をかけて酒と女を用意した宿へと送り出してやった。

「・・・満州八旗だと?」
「倭人どもめ、本当に碌なことをしない」
「美国も華南に兵を出してくるぞ、これからどうする?」

深刻な顔で不安を漏らす幹部達の言葉をあざ笑いながら、白朗はそれでも真面目ぶった顔で思索に耽る振りをしていた。

これからどうするだって?
コイツらは何も判っていない。

満州八旗の復活?日本の策動?美国の出兵?

それがどうした。

一体コイツらは何を心配しているんだ?
動乱の時代に産まれた男子たる者、混乱と混沌を利用してのし上がっていくしかないじゃないか。

「・・・都督閣下のお考えを伺いたい」

北洋軍閥に反乱を起こして白朗党に合流してきた王生岐が不審そうに尋ねてきたので、白朗は仕方なく幹部達の前に机の上に地図を広げて現在の状況と対応を説明し始めた。

「露国は中央アジアで立ち往生だ。英国仏国は欧州の大戦でこちらまで手は回るまい。
 日本はそもそも我々に興味が無いだろう。満州八旗は放っておけ」
「放っておくのですか?華南に送り込まれる美国の軍や北洋の連中と手を組まれたら厄介ですぞ」

王生岐の疑念を白朗は内心で鼻を鳴らして無視し、表面上は不敵に笑いながら地図の一点を指差した。

「ここを攻める」

白朗の指先は中華大陸を越えてさらに南、フランス領インドシナを示していた。


4月20日。
重慶を出撃した白朗軍は大量の匪賊を各地に派遣しながら南下を開始する。
未だ本格的にアメリカ軍が派遣されていない華南自由連合を苦も無く突破するとそのまま仏印の国境を越えてフランス植民地軍に襲い掛かった。
すでに欧州へとその主力が移動し最低限の警備戦力しか置かれていなかったフランス軍は敗退を重ねてハノイの劫掠を許し、白朗は鹵獲した武器を手渡してインドシナ住民を扇動する。

「独立せよ!独立せよ!独立せよ!」

慌てたインドシナ総督府が現地住民への監視を強めて軍の動きを鈍らせると、白朗軍はその隙を突いて元来た道を駆け戻り封鎖に出てきた華南自由連合を蹴散らしてそのまま重慶へと帰還してしまう。
残されたのは灰燼と化したハノイの街並みと、再び増殖した匪賊の群れだった。

「列強の一角に鉄槌を下してやったぞ!」

略奪品をばら撒きながらそう叫ぶ白朗に勢力下の住民は喝采を浴びせ、匪賊と騎馬民族に怯える漢民族は羨望の眼差しを向けた。

白朗軍によって流し込まれた武器と匪賊によって一気に治安が悪化した仏印総督府は、苦渋の決断としてアメリカ合衆国に治安維持を依頼。
アメリカは嬉々としてアジアに送り込む兵力を増やしていく。

141 :名無しさん:2014/07/02(水) 22:31:58

4月26日ヴェルダン。
日本欧州派遣軍先遣隊による籠城戦が開始されて2週間余り。

一時的に砲火の止んだ堡塁は奇妙な静寂に満たされていた。
分厚いベトンを通して戦場に生きる男達の押し殺した息遣いが聞こえてくるようだ。

「――参謀総長殿が軍使とは、驚いたな」
「北京の勇者に対する礼儀だよ」

呆れた響きのある柴五郎の声に奇襲の成功を感じ取ったファルケンハインは満足げに笑って見せる。

参謀総長たるファルケンハインが最前線の堡塁までやってきたのには理由がある。

ドイツ軍の重包囲下にあってなお堡塁に籠る日本軍の士気は高く、押し寄せる独軍の攻勢を幾度も跳ね返していた。
堡塁もろとも粉砕せんと加えられるドイツ軍の砲撃に耐えて肉弾戦を押し返し、あまつさえ大規模な夜襲を発起して前線に切り込みドイツ軍に消耗を強いる。

開戦前に聞いた話ではイシンの内乱でサツマとアイヅは犬猿の仲だと言われていたのに、戦場で轡を並べた途端100年来の戦友のように動き出すなどまるでイギリス人のペテンに引っかかったようだった。

攻める薩摩を会津が守る。
因果な皮肉に日本軍の将兵達は笑い合い、決してドイツ軍に堡塁を明け渡すまいと気勢を上げる。

戦場でかっての憎悪を乗り越えて一致団結する兵隊たち。
実に美しい話だが、一致団結されて立ち向かわれる側からすれば堪ったものではない。

だからわざわざファルケンハインが降伏勧告の軍使を務める為に参謀本部からやってきた。

勝利が確定した戦場でこれ以上味方の損害を増やしたくないと思わせるほど柴率いる日本軍はドイツ軍に損耗を与えていたし、義和団事件で知り合いになった実直な男を消耗戦などと言う無感情な計画で死なせたくはなかった。

「柴、君たちは十分に戦った。もう良いのではないだろうか?
 戦場に出た勇者たちが皆死なねばならない理由など、私には思いつかない。
 君たちのカイザーもそんな事は望んでいないだろう」
「北京と同じだ、降伏は出来ない」

頑迷な柴の言葉にファルケンハインは首を振って慨嘆する。

「ここで降ったからと言って誰が君たちを辱めるだろう。君は二度も伝説を作り上げた。
 私たちは義和団の連中とは違う。君たちに勇者としての待遇を約束する」
「何を言われても同じことだよ」

何が同じなのかと問いかけるファルケンハインの視線に、会津の侍は当然の如く言い放った。


「ヴェルダン防衛の任は撤回されていない」

142 :198:2014/07/02(水) 22:32:39

この発言に協商各国の将兵の士気は膨れ上がったが、同時に各国の上層部は大いに慌てた。

英雄の玉砕はさらに士気を上げるかも知れないが、極東より来た援軍を黙って死なせては政府の信頼に関わる。
つまり救援の為の兵力をドイツ占領下にあるヴェルダンに送り込まねばならず、その兵力を敗北したばかりのフランス軍が即座に抽出する事は不可能。
ソンムで攻勢準備中の英軍だけでは兵力が足りない。日本からはどれほど急いでも間に合わない。
イタリア?何してるんだあいつら?

一時は日本の帝都でやんどころなき方が漏らした心配の言葉により史上二度目の『開城勅使』の派遣さえ検討された。

しかしながらそのどれよりも早く、ファルケンハインから日本軍降伏拒絶の報告を受けたヴィルヘルム皇太子が堡塁の包囲を解き休戦を宣言する。

「貴官が望むままに行動されたし」

フランス側の戦線へと一方的に開けられた包囲の輪は、明確に堡塁からの撤退を促していた。

義和団事件において顔見知りになったファルケンハインが必死に説得したからだとも、皇太子が柴の武士道精神に感動したからだとも言われるが、実際は覚悟を決めた英仏軍による反攻が行われるのを恐れて後方に残った厄介者を取り除きたかっただけであり、皇太子の命令には極東の将軍の意地への称賛より呆れの方が強かったという。

この状況になってもまだ柴は堡塁を動こうとはしなかったが、協商国司令部・日本本国より撤退の厳命が伝えられるとようやく行動を開始する。

勝者が如く軍旗を掲げて堡塁を出た日本欧州派遣軍先遣隊、その数8000名足らず。
ドイツ皇太子に姿が見えぬ他の将兵の去就を尋ねられ、柴は悲しそうに笑ってただ一言だけを返した。

「靖国へ」

総兵力の5分の4を完全喪失してなお戦い続けようとしていたという衝撃にヴィルヘルム皇太子は慄然とし、ドイツ全軍は皇太子を筆頭に行進する日本軍へと敬礼を捧げた。

5月1日。
日本軍の撤退によりヴェルダン要塞最後の堡塁が陥落。
その一か月後、フランス軍はなけなしの戦力を掻き集めて奪還を挑むが、攻守の立場を変えて要塞に籠ったドイツ軍を打ち破る事が出来ず将兵の死体を無為に積み上げて戦線をマルヌ川まで後退させる。

日仏軍30万人独軍15万人。
敵に倍する損害を出して敗北したという事実にフランス人が憤慨する中、洋上において鋼鉄の海獣たちが激突しようとしていた。


1916年5月31日。
ユトランド沖海戦が発生する。

次話:ユトランド沖の弔砲

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最終更新:2014年07月12日 01:15