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風が吹けば


1916年5月31日から6月1日にかけて行われたユトランド沖海戦の勝利にイギリス国民は熱狂した。

英国グランドフリートは戦艦5隻・巡洋戦艦7隻を失い、ドイツ大洋艦隊は戦艦7隻・巡洋戦艦7隻・前弩級戦艦6隻を喪失。
日本海海戦に勝る圧倒的な勝利を求めた英国海軍の目論見は挫折したものの、英国海軍はドイツ大洋艦隊から制海権を奪い取る事に成功した。

かって英国海峡艦隊がフランス艦隊に勝利してから122年。
偉大なる海軍の後継者達は今度はドイツ人の艦隊を打ち破って大英帝国の歴史に新たな栄光を書き加えたのだ。

グランドフリートも被害を受けたが問題無い。
元々ドイツ人よりも自分達の方が戦艦の数は多いのだし、何より大英帝国には日本と言う心強い友人がいる。
停滞した戦争の鬱屈を吹き飛ばす勝利にイギリス国民は歓喜の声を上げながら英雄と戦友を称えて祝杯を掲げ、イギリス海軍上層部はその勝利の苦さに顔を顰めた。

海戦に参加した艦艇のうち戦艦5隻・巡洋戦艦7隻が沈没、大破・戦線離脱した艦は9隻に上りそのうち2隻は修復するより解体する方が早い有様。
小破中破は数えたくない、というより損害の無い戦艦を数えた方が早い。

何より上層部が問題視したのは巡洋戦艦の損害だった。
沈没した7隻中5隻が同じドイツの巡洋戦艦と撃ち合って一方的に轟沈。
いくら英国の巡洋戦艦が強行偵察用の大型装甲巡洋艦だからと言っても、仮にも戦闘艦艇が戦闘中にポップコーンのようにバカバカ爆発して沈んでしまうなど冗談ではない。
ドイツの巡洋戦艦も同じ数だけ沈んでいるが大人しく轟沈してくれる愁傷な艦はいなかった。
英国巡洋戦艦を元にイギリスが設計建造した日本海軍の金剛が同じように戦って最大でも中破、簡単な修理で全力戦闘が可能なのを見ればイギリスの巡洋戦艦設計に不審を抱かざるを得ない。

つまり『栄光の6月1日』の勝利は、かってリチャード・ハウ提督が指揮した戦いのように英国海軍へ自己の問題点を突き付けたのだ。
まったくもって皮肉好きな英国紳士に相応しい顛末と言えるだろう。

このままフィッシャー提督の設計思想で突き進んで大丈夫か?

この英国海軍の不安感はやがて日英海軍による建艦技術の共同研究として帰結していくことになる。

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そして同じユトランドの敗北にドイツ国民は慨嘆し大洋艦隊の壊滅に衝撃を受けはしたが、イギリス国民ほど激しく感情を動かしたりはしなかった。
マルヌ・タンネンベルク・ヴェルダン、基本的にドイツ軍は陸の上で優勢に戦争を続けており何よりも海の敗北を忘れさせる情報が東から届けられたからだ。

1916年6月4日。ロシア軍南西正面軍司令官アレクセイ・ブルシーロフ大将は苦労して抽出した歩兵30個師団と騎兵9個師団からなる3個軍を投入し、オーストリア領ガリツィヤ地方への攻勢を開始する。
ロシア軍は短いが正確な大規模砲撃を行ってからオーストリア軍の戦線の綻びを目指して突撃する新戦術を実行し――ドイツ軍が構築した頑強な塹壕陣地に遭遇する。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世のオーストリア救援の厳命に従い送り込まれたタンネンブルクの英雄。
パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエーリッヒ・ルーテンドルフ中将の二人組が、再びロシア軍の前に立ち塞がったのだ。

1915年にオーストリア救援を皇帝に命じられた時、西部戦線を重視する参謀総長ファルケンハインはオーストリア救援に乗り気ではなかった。
中央アジアの泥沼で動きを鈍化させているロシアの事などこちらに攻め込んで来ない程度に放っておきたかったし、オーストリア=ハンガリー帝国が不甲斐無いと言っても所詮他の国だったからだ。
しかしながら唯一の同盟国に離脱される事が問題だという事はファルケンハインにも理解でき、何より東部戦線から兵力を引き抜く度に不満の声を上げる東部戦線重視派のタンネンベルクの英雄二人も煩わしかった。
最終的にファルケンハインは新編したばかりの兵力を中心に30万名をオーストリアに送り込んで独墺連合軍の指揮を英雄コンビに任せる事でドイツ軍内部の諸問題を解決する。

皇帝の政治的要求と唯一の同盟国への誠意を満たして邪魔な政敵を遠ざけ、おまけに新兵の練成まで行える。

政治的な意図が透けて見えるファルケンハインの命令にヒンデンブルクとルーデンドルフは歯噛みしながらオーストリアに着任し、新兵と弱兵の混成部隊を指揮してイタリア・ロシアと戦う事になった自分達の兵力の質を塹壕によって底上げするべく、5重に上る塹壕線をガリツィヤ地方に張り巡らせていった。

かくしてブルシーロフのロシア軍は独墺軍の頑強な防衛線に突撃してしまい、兵力不足もあって浸透戦術という新戦術も満足に生かせないまま損害を積み重ね、ロシア政府が下した悲鳴のような命令によって後退を余儀なくされる。

6月10日。
中央アジアのロシア帝国保護国であったヒヴァ・ハン国がロシアからの独立と奪われた領土の奪還を宣言、同じくロシアの保護国であったブハラ・アミール国も独立を宣言する。

これらの宣言を受けて反ロシア武装勢力は当然の如く連携を開始し、ロシア帝国に徴兵された中央アジア出身の兵士が次々と独立勢力へ合流。
蜂起した独立勢力にヒヴァ・ハン国の首都ヒヴァからロシア軍が駆逐されるに至って武装勢力による襲撃と暴動は中央アジア全域の独立戦争へと変化してしまう。


ドイツ帝国海軍最大の戦果は中央アジアの陸の上で産みだされようとしていた。

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6月11日ヒヴァ。
中央アジアにチンギス・ハーンの末裔が築き上げたヒヴァ・ハン国の首都は熱狂に包まれていた。
偉大なるハーンがついに横暴なロシア帝国からの独立と領土の奪還を宣言したのだから、中央アジアの遊牧民達の歓喜の声も一際高まろうというのものである。

「日和見の王様が良く決心したもんですね」

カナリスの副官はヒヴァ政府に割り当てられたホテルの窓から歓声の沸く街並みを意外そうに眺めていた。
自分達の権威と贅沢が維持されるなら後ろ盾が何者であろうと気にしない、ある意味現実主義な中央アジアのハーン達が自分達のような弱小勢力の提案に乗って実際に行動を開始するとは思ってもいなかった。

ふと思い立って上官に尋ねてみる。

「大尉殿、ヒヴァの政府に何かしたんですか?」
「ああ、我々に協力していた事がロシアにバレたからやけくそになったんだろう」
「なるほどね・・・『協力していた』?」

カナリスの言葉に頷きかけて、そのまま首を傾げる。
彼が知る限りヒヴァ・ハンの政府やその関係者からカナリス達が支援を受けた事はなかったはずだ。

ヒヴァ・ハン国がロシアからの独立を宣言したから自分達はここに来て支援を受けていられるのであって、ヒヴァ・ハン国の支援を受けていたからここにいる訳ではない。反ロシア活動がバレたから独立戦争を始めるという説明は矛盾しているではないか。

怪訝そうな副官にカナリスはコーヒーを淹れながら上機嫌に説明してくれた。

「ヒヴァ・ハン国は極秘のうちにドイツに協力して反ロシア運動を支援していた。
 と、いう口実でロシア政府はヒヴァ・ハン国を解体するつもりだ、とヒヴァの政府に教えてやったんだよ」
「・・・酷いですね」

それはつまり嘘八百でヒヴァ・ハン国を躍らせたという事ではないか。

「同じ事をブハラ・アミール国にも伝えたが上手くいったようだ。
 まあ――ちゃんと独立できたらそれほど酷い話でもないだろう」

ドイツ海軍大尉は悪びれもせずそう言って美味そうにコーヒーを飲み干した。

カナリスが上機嫌なのは久しぶりに残りの量を気にする事無くコーヒーが飲めるからか、それとも大規模な謀略を成功させたからなのか――副官には何故か前者のような気がして妙な不安に襲われた。

583 :198:2014/07/08(火) 12:01:52

保護国による明確な造反に激怒したロシア帝国政府は中央アジア鎮圧の為に欧州からさらに兵力を引き抜く事を考え始め、ブルシーロフのドイツ・オーストリアへの攻勢を中止させる。

これに慌てたのはソンム・ヴェルダンでの攻勢を開始していた日英仏伊の協商国である。
ロシアの攻勢とタイミングを合わせてドイツ・オーストリアを東西から攻撃するはずが、このままではまたしてもフリーハンドのドイツ軍と西側だけで殴り合わねばならないからだ。

本当なら東西からドイツを挟撃できているというのに、ロシアは開戦初期のタンネンべルクで躓いて以降ドイツの扇動による中央アジアの泥沼に嵌ってまともに動くことが出来ず、英仏の新聞に『欧州の戦争を気にせず冬眠する熊』や『中央アジアで砂遊びに興じる熊』といった風刺画が載せられる始末であった。

ロシア政府としてはドイツ軍を相手にするよりも自国の崩壊を阻止しようという当然の選択をしたのだが、これによって相対的に強化されるドイツ軍と戦う羽目になった西側協商国には堪ったものではない。
ソンム・ヴェルダンで血塗れになりながら慌ててロシアにドイツへの攻勢を要求するも、逆にロシアから東部戦線への戦力派兵を求められるに至ってようやく事態の深刻さに気が付いた。

ダメだこの熊、早く何とかしないと。

西側協商各国は欧州に到着した日本軍50万名を加えて必死に攻勢を続けながらロシア救援の為に走り回る事になる。


11月20日。
戦車と言う新兵器が投入されたソンム・ヴェルダンの攻勢が血泥の中で双方合計100万人以上の損害を出して引き分けに終わり、英仏は北の熊の不甲斐無さを血圧を上げて罵ったが、この時すでにロシア帝国は半分以上戦争から脱落しつつあった。

満鉄=シベリア鉄道を通じた潤沢な後方支援も塹壕戦と内乱という二つの泥沼に飲み込まれ、ロシアは国内体制の維持が精一杯になっていたのだ。
英仏はドイツに対する東の重しをなんとか繋ぎ留めて置く為に兵站線の不安に派兵を渋る日本を宥め透かし、西部戦線向けに日本本土で編成されていた日本軍の一部を東部戦線に送り込む事を決定する。

指揮官は秋山好古大将。先遣隊として騎兵3個師団。
満州の大地にコッサク騎兵1000個中隊を葬った男が救援にやってくるという朗報はロシア軍の士気を大いに高めたが、日本軍の本隊が本格的にロシアへ送り込まれる前に事態はあっけなく破局を迎えてしまった。


1917年2月23日。
ロシア革命の勃発である。

次話:跳梁跋扈

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最終更新:2014年07月12日 01:42