686 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:41:06 ID:IdV3bW49 「各地の『王の森』はその名のまま、王が狩りをするための猟場でな。 鹿やイノシシが外に出て民衆の畑を荒らさぬよう、かつてのアルビオン王家が魔法で固定化した柵で広く森をかこった。 その柵を利用されて俺たちはウォルター、おまえら言うところのクリザリング卿に封鎖されてるわけだ。とはいえ、出ていこうと思えば出来なくはないが。 ほどこされた封鎖強化はむしろ、外の者が入らないようにするためだな」
案内された木造の小屋、粗末な台所。 才人とアンリエッタは丸太の長椅子に隣りあって座っている。 マーク・レンデルは二人に湯気の立つカップを渡しながら語った。
「現に、多くの領民は耐えきれず他所に逃げていった。無理はないのさ、ウォルターはときおり怪物を森にはなっている。 見なかったか? 女の顔にライオンの体の怪物だ。殺されたものは多い」
「……なんであんたらは逃げてないんだ?」
刻んだショウガを放りこんだ湯をすすりながら、才人はたずねた。
「なんでだろうな……まあ、くだらん意地やあれこれさ」
マーク・レンデルは二人のまえに椅子をひいて座り、自分もショウガ湯をすすりはじめた。額にしわを刻んで、沈鬱な表情。 四十は越していると見えたこの男が、意外にまだ若いことに才人は気づいた。 森の過酷な生活が、実年齢以上に風貌を老けて見せているのだろう。
「俺は親父の後をついだ森番だった。森林監督官の下に森番がいる。俺たちの家は先祖代々主君と家臣のようなもので、ウォルターの馬鹿は俺には『若様』だった。 ここの森番は、平民ゆえ形としては公務員ではなく、王領の領民で森林監督官に『自発的に協力』する者らだ。給料は謝礼という名目で出ていた」
そこで一度言葉をきり、いまいましげに無法者は顔をゆがめた。
「あれは子供のころから頭がよく、同時に過敏で気の弱い男だった。いまの『あれ』は、かつてのウォルターとはもはや別物だ。 あれがおかしくなったのは数年前、あの塔に頻繁にこもるようになってからだ。 〈永久薬〉には狂気が宿る、という言い伝えはここらのだれでも知っていたのに。入ろうとしたとき、すでに変貌していたのかもしれんが」
「ちょっと待った」
うん? と首をかしげた男に、才人は問いただした。
「あの塔の中になにがあるのか知ってるんだな?」
687 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:41:36 ID:IdV3bW49
「〈永久薬〉の処方箋があると聞く。『塔のメイジ』が書きのこしたやつが。 たぶん、ウォルターはそれ以前に塔に踏みこんだことのあるクリザリング家の先祖たちと同じく、永久薬を作ろうとしたのだろう。 そして作ることに成功したのだと思う。ウォルターが使い魔のように使役するあの魔法人形は、俺たちが矢を何本突きたてても倒れなかった。 伝説では、永久薬の効果は、『物質の属性、効力を無限に引きのばす』ことだという」
はおらされた才人のマントにくるまっているアンリエッタが、はっと何かに気づいた態で頭を起こした。
クリザリング邸の晩餐で、彼女はほれ薬の一種をのまされたようなのである。 解毒薬を館で一回、効き目が薄れたためさきほどもう一回服用したのだが、様子はいまなお熱っぽい。 あせった様子で、女王は森の無法者に確認した。
「無限に?」
「ああ、いろいろな言い伝えがあるな。 『あの塔を守っているのは、永久薬によって長い年月を動きつづけている魔法人形の一群』。 『錬金の魔法をこめた杖が、とどまることなく触れるものを金に変えた』話。 『塔の最上階で生きつづけているメイジ』。 『永久薬をつかった眠り薬をのまされた姫君が、起きられなくなった』話」
才人とアンリエッタは、一度顔を見合わせた。才人が食い下がる。
「最後の話を詳しく!」
「そういえばそこの娘さんの事情と関係ありそうな話だな。 いや、単に、恋敵に眠り薬をのまされた貴族の姫君が、ほうっておくと昏々と眠りつづけるようになったというだけの話だ。 解毒薬を口から流しこむと少しの間起きていたそうだがね。ひんぱんに解毒しないとすぐ眠くなるので、一日の四分の三を眠ったまま一生を終えたという。 その眠り薬が、この塔で作られた永久薬の効果をおよぼされていたということだ」
アンリエッタが薄赤くなっていた顔色を、怯えで白にもどしている。
「一生? 解毒薬が、効かない?」
「うむ……詳しいことは知らんが、解毒薬がまったく効かないわけじゃないだろう。この眠り姫の話にしても、短い時間ながら中和していることだし。 毒の効果が切れないので、時間がたてば解毒薬が負けてしまうのだろうさ」
素人考えだがね、と率直に述べるマーク・レンデルだったが、アンリエッタはカップを持ったまま呆然とつぶやいた。
「いえ、もしそれだとするとこの状況の説明がつきます……王宮の薬剤師が、調合を失敗するはずがないのです」
688 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:42:18 ID:IdV3bW49
「ん? どこの薬剤師って?」
「あ、あー、ところで、それならやっぱり塔の中を調べる必要があると思うんだけど。 行ってみるわけにはいかねえかな」
注意をそらすべく、内心焦りながらも提案した才人に、マーク・レンデルはすげなく首をふった。
「やめとけ、塔に踏みこめるのはウォルターだけだ。クリザリング家の血を引くものしか入れない。 どんな原理か、先代やウォルターが手を塔の扉にかざすと開いた。それは俺も見ている。 伝え聞いた話によれば、アルビオン王にもそれが可能だと言われていたがね」
それを聞いて、才人はうなった。
「どのみち、やらなきゃならねえんだよ。このままはまずいんだ。だろ?」
「ええ。かならず解毒しなくては」
才人に同意をもとめられ、アンリエッタが即座に首肯する。 二人とも、今の状況がどれだけ深刻かよくわかっているのだった。余人ならぬ国のトップが、この先まともな思考もままならないというのは極めてまずい。 マーク・レンデルが、難しそうに腕をくんだ。
「……あえて試みるなら夜の間だな。日が落ちたあと、あの塔は怪物たちを吐きだす。扉もゆるんでいるかもしれない。 危険だからやめておけよ、と言っておくがね。どうしても行かなきゃならないなら、ウォルターを捕まえて塔を開かせたほうが安全だ。 ところで」
森の無法者は、好奇心のこもった目を二人に向けた。
「ウォルターの館で薬を盛られたってのは聞いたが。 お前らがどこのだれだかは、まだ聞いてないんだがね?」
「……やっぱ言わなきゃならねえか?」
「思い切りが悪いな、坊主。俺たちに害意があるなら森で射ていたぞ。お前らを保護したあげく『仲間と連絡をとりたい』という要求を聞いてやっただろ。 俺の弟分たちが今、塔に向かったという連中をさぐってる。やつらが接触したらすぐ判明することだろうが。 身がまえなくても俺たちは、たんなる農夫兼猟師の集まりのようなものだ。凶悪なことはやってないぞ」
689 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:42:48 ID:IdV3bW49
「でも盗賊とだれかが言ったような」
「……大胆だな坊主。平民とはいえ自由民をつかまえて盗賊呼ばわりは無礼だぞ。 俺たちが盗賊? 封鎖されてる森の中で、誰から盗むんだよ。 王の森の獣は食ってるから、しいて罪状をいうなら密猟だな」
まあ密猟は森林法に照らせば死刑もあるくらい立派な重罪なんだがな、とこともなげに元森番は言った。 複雑な表情で黙りこんでいるのはアンリエッタである。 才人は一応、そこにも突っこんだ。
「その密猟は取り締まられなかったのか、クリザリング卿に?」
「放置されている。本来それがあいつの任務のはずなのにな。あいつはおそらく、塔のこと以外のほとんどが、もうどうでもよくなったのだ。俺たちの生死も。 ウォルターは、俺たちを追いつめようとはしていない。さもなくば、いつでも殺せたはずだ……先ほど農夫兼猟師といったとおり、俺たちは森中に畑をつくって耕作してる。そこから離れられないのだからな」
森の男はしばし言葉をきり、首をふった。
「森にのこった俺たちは、かつてのウォルターのもっとも忠実な臣下だった。俺たちは、あいつを元に戻したい。叶わぬのなら殺したい。だが、そんな力はない。 ……もし手を組むことで双方に利があるなら、そうしない法はない。だから、お前たちが何者であるか聞いておきたいのだ」
らんと獣のように強烈に輝く目で、マーク・レンデルは二人を見つめた。 才人とアンリエッタはもう一度目を見交わし、困ったようにもじもじした。しばしして、女王が問いただす。
「あの……失礼ながら、森の外のことについてはあまり情報がないようですわね」
この男たちに森の外の情報が遮断されていないなら、目の前の少女がトリステイン女王であることに思い至らないとは考えにくい。 いかに公式には「軽く視察する」程度にしか知らせていないとはいえ、トリステイン女王がアルビオンを訪れたことを全く知らないはずがないのだから。
「ああ、正直言うとな。先の革命や大戦も森のなかで知ったくらいだ。 ウォルターの君臨は政変にまったく影響されていないように見える。 アルビオン王家にウォルターが援兵を出さなかったとはいえ、レコン・キスタに王の森の管理官の地位を奪われなかったのはつくづく不思議だね」
このアルビオンの「王の森」の名目上の主権者は、二回かわっている。 アルビオン王家からレコン・キスタに、今はトリステインはじめとする連合軍が置いた代王政府に。 その二回ともウォルター・クリザリングは旗幟を鮮明にせず兵を出さず、そして深く干渉されず、実質的な領主である今の地位をたもちつづけていることになる。 むろん政治的術策の結果として、それは不可能ではないが。
(でも、難しいと思うわ……どうやって? レコン・キスタは甘い目こぼしをする組織ではなかった。 「与えるものは受け取ることができる」と枢機卿に教えられたことがあるけれど、この場合はよほど与えるものがないかぎり…… 賄賂にしても莫大な額になるわ。そんな富がクリザリング卿にあるようには見えないし)
アンリエッタは茫洋としながらもそれを考えようとした。
690 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:43:22 ID:IdV3bW49
才人は才人で、アニエスやルイズと合流したあとのことに思いをめぐらせている。 マーク・レンデルは二人を交互に見てから、「まあ、今すぐに話せとは言わんさ」と鷹揚にかまえてみせた。
「とりあえず斥候に出した奴らから連絡がくるまで休んだほうがいいだろう。下手に出あるいて迷うより、地元の俺たちに任せとけって。 この集落には小屋がいくつかある。半分以上は捨てられたものだから、どれでも好きに入りこんで使っていいぞ」
「……そうだな、連絡つくまでは下手に動かないほうがいいか。お言葉に甘えさせてもらうよ」
才人はショウガ湯を一気にのみほし、渡された獣脂のランプを手に立ちあがりかけた。 すると、アンリエッタも立ちあがった。 少年は固まった。そういえばそうだった。この問題があった。
……けっきょく外に出ても、つつましい足音が才人のあとを追い、小屋の中までついてきた。
ほこりまみれの粗末な寝台しかない小屋に入ってから、冷汗をにじませて才人が振りかえると、女王は朽ちかけたドアを後ろ手に閉めていた。 姫さま? とややたじたじとなっている才人の前で、アンリエッタは白皙の面を染めて熱をたゆたわせながら、静かに口をひらいた。
「すこし、お話ししませんか……」
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マザリーニはフネの船尾近くから下を見おろした。 夜、地表をおおう木々は空からは黒い海のように見える。 信じがたいことに、ウォルター・クリザリングが動かすこの中型船三隻の艦隊は、無灯火で闇のなかを航空していた。
眼下の黒冥に視線をさまよわせながら、彼は杖をとりだして握った。 この高さならレビテーションかフライを使えば、無事に着陸できるだろう。
「なにをされるつもりかな」
いつのまにやら甲板にあがってきたらしいクリザリングの声が、風にのって背後から聞こえた。 黒衣をひるがえらせながら、マザリーニはふり向いた。 森林管理官が立っていた。そばに数名の召使がひかえている。異様に物静かな男たちだった。
「わざわざお招きいただいたのに心苦しいが、夜空の遊覧にも飽きたのでな。 降ろしてもらおうかと思っておる」
「なるほど。では好きにされるがよい」
特に興味もなさそうなクリザリングの返答に、マザリーニはやや意外そうに目をほそめた。
691 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:43:55 ID:IdV3bW49
「ずいぶんと豪気だな。捕虜が逃げようとしているのだぞ」
「どのみち適当なところで放逐するつもりだった。 猊下をここまで連れてきたのは、指導層を我々の出はらった館に残しておけば、ほかの捕虜を煽動して火でもつけかねんと思っただけだ。 もっとも残すべき価値のある物もないが」
クリザリングの言葉は、マザリーニを拘束もしていないことが裏付けていた。 だがマザリーニの背筋には悪寒が走った。厄介払いするつもりだった、というのはおそらく事実だろう。しかし逃がすよりもっと手っとりばやい道は、マザリーニを殺すことだった。 この男は、どちらでもよかったのだろう。根拠はないながら、クリザリングの鬱勃としてなお透明な雰囲気に接し、マザリーニはそう直感していた。
「なにを考えているのだ、クリザリング卿。 貴殿は私には理解できぬ。わかるのは、貴殿が気違いじみているということぐらいだ」
風に劣らぬほど温度の低い声を出しながら、マザリーニはクリザリングと向き合ったまま一歩下がり、船べりに尻を乗せた。 青年は怒りも笑いもせず、突然に興味がわいたような表情でまじめに問い返した。
「気違い? それはたとえばどのような行為を指して?」
「この日の最初から最後まで、あらゆる行為をだ。 今このときに限っても、無灯火で艦隊を夜間航空させるなど、ほかにどう言いようがある? 着陸難というだけでなく、うっかり間違えば三隻のみとはいえ互いに衝突するぞ」
急速に、クリザリングは一片の熱もない醒めた様子に戻った。
「艦隊運用について猊下に心配していただく必要はない。みずから言うとおり、そろそろ降りていただこう。 彼がこれ以上とどまるなら、背骨を折って放りだせ」
クリザリングの最後の一言は、そばの召使たちに向けての命令である。 マザリーニは顔をしかめると、ゆるやかに背を倒し、船べりから後ろむきに身を空中に投げだした。
………………………… ……………… ……
「手前はほとんどの事物に、執着するほどの価値を見いだせないだけだ。 これも諸人にとっては狂気の一種なのだろうかね、猊下」
「ウォルター・クリザリング」は船べりに立ち、マザリーニの飛び降りたあたりを見やる。 逃げたところで運が悪ければ、あの老人はすぐ死ぬ。 森にはスフィンクスを放っているし、王軍のところに逃げたのなら、これから自分が始めるつもりの戦闘に巻きこまれるだろう。
692 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:44:36 ID:IdV3bW49
「どうせこの世は無常の夢、万象はさだまらず転変するだけだ」
ぶつぶつとつぶやく。 彼にとって、他者の去就は生死をふくめ、とくに考慮するほどのことではない。自分自身の末路でさえ、さほど問題にはしていないのだから。 今なおわずかなりと気にかかるのは、せいぜい女王の安否くらいである。なんといっても、ウォルター・クリザリングにとっては重要な少女だったのだから。
もの言わぬ家臣たちを向き、あごをしゃくって追い払う。 離れていくその後ろ姿を見ながら、思考をめぐらせる。
館にのこっていた女王本人は、大胆にも少人数で森に逃げたようだった。 彼女を殺すつもりはないが、捕らえておけばその配下たちをおとなしくさせられたかもしれない。 枢機卿では無理だろうが、女王とであれば王軍の者もあの少女を差しだすことに同意したかもしれないのだ。 しかしクリザリングは喜ばない、と彼は感情のない声で独白する。
「いかな種類でも『アンリエッタ姫』に危害を加えることを、そうだ、ウォルター・クリザリングは肯んじないだろう……そうとも。 では、やはりそれ以外を直接狙うか」
ラ・トゥール伯爵とはすでに激突した。あの、都市トライェクトゥムの商人貴族は手勢を引きつれて敗走した。 女王が塔に派遣した兵は、スフィンクスの魔法人形がかく乱しているだろう。 この二つの軍勢は森で合流する可能性が高い。
一方、こちらの手駒は、塔に収容していた魔法人形たちが主となる。数は、近衛隊とトライェクトゥム兵の連合の半数にも達せず、五十体ほど。 ただし巨躯が多い。 〈永久薬〉によって半永久に動きつづけ、形を徹底して破壊されないかぎり戦えるこの兵たちは、夕刻より森を驀進して館に駆けつけ、ラ・トゥール伯爵の兵をうち破る主戦力となった。 彼はその魔法人形たちを、この三隻の運搬用フネに搭載していた。重量の問題で三隻に分散させているのである。
「さて、どこまで手を出したものだろうか」
本来手をかける必要があるのは虚無の少女だけだ、と彼は続ける。
「抹消されるべきは、塔が強引に暴かれる可能性だけだ」
あの少女を殺す。ほかの有象無象は、邪魔だてする者だけ排除すればよい。 そこで、いや、と考えをひるがえす。
「否、否、考えてみれば、『虚無』の人物が重要でないわけはなく、重要人物を王軍が威信にかけて守らないわけもない……では、最初から徹底しておくか」
鏖殺するつもりでちょうど良いくらいだろう。そう、彼は結論した。
693 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:45:27 ID:IdV3bW49
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「火は効かないようだ。外の焚き火も、こちらの視界を確保するしか役に立っていない。 外では、いくつかの焚き火を背に円陣をしかせているが、あのスフィンクス、ときおり平然と姿をみせている」
塔と館をつなぐ、森に両側をはさまれた林道沿いにある小屋。 林道にはいくつもの焚き火がたかれ、兵たちが武器を手に緊張をはりつめさせている。
外の警備を副官とマンティコア隊の代表にまかせていったん離れ、小屋に入ったアニエスは仏頂面で報告した。 炉の前でマザリーニと向かいあっていたラ・トゥール伯爵が、いらいらと吐き捨てた。
「当たり前だ、魔法人形だからな。本物の獣と同じく火を恐れるはずがない。 クリザリングの奴はああいった奇怪なものを手駒として多くそろえているようだ、館の戦闘でも背後から魔法人形がわれわれに襲いかかってきた。 それさえなければ、トライェクトゥムの兵だけで圧倒してやれたのに」
小屋のなかではアニエス、逃げ出してきたばかりのマザリーニ、それにラ・トゥール伯爵が顔をつきあわせることになった。 帽子にクモの巣と木の葉がくっついたまま、椅子にすわって防寒用キルトにくるまっていたマザリーニがアニエスに向けて告げた。
「陛下のゆくえが知れない。館にはいなかったようだ、クリザリング卿に捕らえられてはいない。 てっきりラ・トゥール殿が連れて逃げてくれたものと思ったが、違うという。みずから行動して森に身を隠しておられるのかもしれん。 われわれは何よりも優先して、陛下の安全を確保するため動く必要がある」
つい数分前に、マザリーニは割合にかくしゃくとしながら森から林道に出てきたのである。 そのまま近衛隊によって保護されたのだった。彼は重要なさまざまの知らせをもたらした。
「それと、クリザリング卿は無灯火のフネに魔法人形をつめこんで航行している。 あの男の思考は読めぬ。十分に警戒せねばならん。 私は焚き火の明かりを見てここまで来れたのだが、間違いなく敵からも見えているぞ。なるべく早く腰をあげねば」
アンリエッタが行方不明と聞いて、アニエスは蒼白になっていたが、うろたえても益はないと合理的に判断することはできた。
(森をあてどなくさまようことになるが、ここは防戦にも向かんし、とどまるのはまずそうだ。 陛下も探さねば。なぐさめは、もし逃げたのならサイトがおそらく護衛として同道しているだろうことくらいか。 待てよ、森の無法者という連中がいたな。いっそ前の傭兵隊のように連中を味方につければ、森の地理を把握することができるのでは)
沈思するアニエスの前で、ラ・トゥール伯爵もまたなにかを考えていた。 彼は顔をあげて枢機卿にただした。
「マザリーニ様、さきほど聞いた話のなかで、フネの動力室も妙であったといわれましたな。詳しく聞くことをお許しいただけますか」
694 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:46:07 ID:IdV3bW49
「……ああ、妙なことだけならほかにいくらでもあったのだがな。軟禁もされなかったので船内を歩きまわり、フネの動力室を見た。 違和感があった。風石の蓄えがなく、補充されたあともない。人の立ち入った気配さえほとんどなかった。動力源はすぐ消費されるのに」
「なるほど……」
下唇を指でつまんで考えこむラ・トゥール。 三人の横では、優先的に小屋に運びこまれた負傷兵たちが沈鬱に押し黙っている。
……この状況はいろいろな要因による。アニエスたちは塔に踏みこめず、かえって塔からあふれでた怪物たちに蹴散らされるようにして道をはずれ、森に逃げこんだ。 来た道とはべつの林道を見つけ、クリザリング邸に引きかえす途中で、館から敗走してきたラ・トゥール伯爵の一団と出くわしたのである。 それからほどなくしてマザリーニを迎え、館側の一部の事情があきらかになった。それでも、情報はまだ足りていない。
アニエスはラ・トゥールのほうに一歩ふみこんだ。
「ラ・トゥール殿の兵を背後から襲ったのは、たぶん塔の怪物たちだと思います。自分たち王軍も、その怪物たちから逃げてこの小屋に逃げこんだしだいです。やつらはそのまま館に行ったのでしょう。 現在、近衛隊を陛下からあずけられているのは私です、ラ・トゥール殿。 われわれ双方で徹底した情報交換が必要かと存じます。考えてみれば、あなたとクリザリング卿の戦闘の経緯さえも聞いておりません」
ラ・トゥール伯爵の目が、今夜はじめてアニエスをまともに見た。 うろんげな、わずかに戸惑いを見せる表情。こちらを見るその目の光に、アニエスは唐突に既視感をおぼえた。 このような眼光はよく見てきた。 銃士隊長にのぼりつめるまでに軍で、栄達してからは王宮や任務のためおもむいた場で。貴族と相対したときに、多くの者の目の奥に。
(これは、平民を侮蔑する者の目だ)
だがラ・トゥールの目の光は一瞬にして散じ、彼は愛想がよいとも言えるほどに気さくな声を出した。 さきほどアニエスが入ってきたときの不機嫌な応対とは、たいしたうって変わりようである。
「……ああ、たしか名はアニエス殿だったかな。失礼、勇壮な麗人であるという銃士隊長の名を、田舎者ゆえとっさに思い出すのに手間どりました。 戦闘の発端は、ウォルター・クリザリング、あの狂人」
その名をだしたとき、トライェクトゥム伯アルマン・ド・ラ・トゥールの四角い面に、憎悪の色がちらとかすめた。
「私は晩餐のあと奴と差し向かいで話しあい、昼間のことについて問いただすつもりでした。ですが交渉にさえ至りませんでした。 奴は召使にとりつがせた私の面会要求を、完全に無視してのけました。のみならず、そのまま私を拘束させようとしたのです。 幸いにも、わが兵が即座に反撃してくれました……そのあとの戦いはこちらに有利に進んでいたのですが、森からいきなり現れたおぞましい魔法人形の群れに背後をつかれたのです。 あとは知ってのとおり、館から撤退する途中であなたがたに出会い、こうして向かいあっているしだいです」
「なるほど、得心がいきました。 ところで、塔の〈永久薬〉について知っていますか?」
695 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:46:37 ID:IdV3bW49
口をつぐんだラ・トゥール伯爵の顔色が数瞬のあいだに変わるのを、アニエスはやや皮肉っぽい気分でながめた。 その都市領主は、ややあって咳払いした。
「……そんなところまで、調べているのですか?」
(おや、これはなにか引っかかったな)
そう腹の中でつぶやき、アニエスは答えない。ただ、じっとラ・トゥールを見るだけである。 しばしして、腹をくくったような顔を見せ、ラ・トゥール伯爵は肩をすくめた。
「ええ、この際その薬のことをもクリザリング卿に問いただしてみようと思っておりました。あの話を最初に聞いたとき、私は一笑にふしたのですがね。 普通に考えれば与太話のたぐいです。実際にあれば喉から手がでるほど欲しいと思うことも否定しませんよ。ええ、もしそんなものがあれば、いくらでも活用できますから。 ですが、それがどうやら本当にあるようなのです。そしてクリザリングは、おそらくそれを実際に活用しています」
「それはいったいどういう……」
アニエスがつい引きこまれたとき、「アニエス!」と呼ぶ声がそれを中断させた。 やむなく場をはずす。
「……ちょっと失礼」
呼ばれたほうへ行く。 ずっと小屋の暗い隅のほうで、なにやらごそごそしていたルイズが怒り泣きするような顔でアニエスの前に立った。
「アニエス! 出ない! 出ないのよ!」
「心配するな、荒事のときは新兵によく見られる現象だ。 座ったらまず息を深く吸いこんで上を向き、口をぽかりと空けてゆっくり息を吐け。なにも考えずリラックスに徹しろ。 さすればおのずと膀胱はゆるむ」
「だ、だれがお粗相の話をしてんのよ!? 虚無よ虚無!」
地団駄をふんでルイズがわめいた。
「乱発しすぎて魔力が切れてるのよ!」
一拍おいてその言葉の意味を理解し、アニエスは慨嘆して天井をあおいだ。 そういえばルイズはあのスフィンクス相手に、半ばパニック気味でディスペルやエクスプロージョンを放っていた。
696 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:47:12 ID:IdV3bW49
それらを全部、あの厄介な魔法人形は巧みにはずしてしまった。 空中までふくめた広い領域を、水中の魚のように迅く滑らかに駆けまわって、危ないと見れば森に逃げこんで姿をくらまし、やりすごしている。 ガンダールヴ状態の才人でも凌駕できるか怪しいほどのスピードもさることながら、不気味なのは生きた獣としか思えないその勘のよさだった。
ともかく結果、ルイズは無駄撃ちのしすぎで魔力のストックが切れたということらしい。
「魔力が回復するまでどのくらいかかる?」
「そ、それは……それがわかれば苦労しないわよ……」
「……やむをえまい。ラ・ヴァリエール殿は戦力からはずす。 私の後ろにいろ」
アニエスは落胆こそしていたが、とくに厳しい態度をとったつもりはなかった。だがやはり目に見えてルイズは沈んだ。 精神の成長いちじるしいとはいえこの少女はまだまだ、虚無が使えないと自身の価値はほとんどなくなるという強迫観念が、完全には消えないようなのだった。
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獣脂の明かりの揺れる小屋の中。 寝起きの役にしか立たなさそうな小屋は、入ってすぐ毛布もないむき出しの木のベッドがある。 その上で女王は、夜を徹して語る覚悟を決めたようだった。
「クリザリング卿が、いまのところ最大の容疑者です」
今夜自分に「ほれ薬」を盛り、兵を動かして反乱同然の真似をした人物が誰かについて、アンリエッタは断定した。 求婚の件があるだけではない。 マーク・レンデルから聞いた種々の情報は、ウォルター・クリザリングという男に対する疑惑を深めるようなものばかりだった。
「もし彼が今夜の騒動の立役者であるのなら、わたくしたちはレンデル氏の共闘の申し出を受けましょう。かれらは森の地理には通暁しているはずです。 でも、ほかの可能性はないのかしら……ラ・トゥール伯爵のほうがわたくしに弓をひいたというような」
ともすれば薬のため散らばる思考をかき集め、わざわざ口にだしてつぶやく。 一つ一つ、必死につむぎあげる憶測を足がかりにして、さらに思索をすすめる。
才人が妙に硬いささやき声で口をはさんだ。
「あの伯爵ですか。なにか心当たりでも?」
その声を聞いて、アンリエッタは赤みがかったまぶたを伏せて「ええ」と答える。 いまや思考すること自体が、むりにでも理性をたもつための方法なのだった。
697 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:47:47 ID:IdV3bW49
「ラ・トゥール伯爵家は、もともと都市トライェクトゥムの領主として、大権をふるってトライェクトゥムに君臨していた名門でした。 でも、何百年も前にラ・トゥール家による暴政がつづいたとき、市民たちが時のトリステイン国王に直訴し、王の裁きが下されました。 王家がトライェクトゥムの市民と組んで、ラ・トゥール家から大幅に実権をとりあげたのです」
立て板に水のようにすらすらと、ただし情動はほとんどない口調。 たぶん、詰めこまれた教育で得た知識を、教科書どおりに口にしているのだろう。 今の彼女にとっては、とにかく何でもいいから思い浮かべる材料があればいいようだった。
「そのあとはトライェクトゥムは、事実上の国王直轄地として栄えました。 それさえも、王家が市の参事会にさまざまな特権を保証して、見返りに税を受けとったというだけで、実際は市民の自治都市だったのですが…… いっぽうのラ・トゥール家は伯爵家という肩書きだけはそのままに、中小規模の貴族に転落したとのこと……です」
「なるほど。だから恨みを王家に、という考えで?」
「いえ……待って、よく考えれば、それも微妙ですね…… その昔日のころであれば、ラ・トゥール伯爵家が叛意をいだくことも納得できたかもしれませんが、長年のうちにラ・トゥール家は地道にじわじわと実権を取り戻し……、 ええと、そう、王家には恭順的で、市の参事会にも平和的に食いこみ、いまのアルマン卿の代では、参事会代表にものぼりつめ、完全に返り咲いて、いるはずで…… 順風満帆なら、反乱してなにも、得るものは、ないのですから……やはり、……違うのでしょう、か……」
アンリエッタの頭がふらふらしはじめた。 才人は血相をかえてその肩をゆする。
「姫さま、気をたしかに!」
ぼんやりと女王が、半分閉じかけていた目を見開く。 傍からみれば、睡魔との戦いに似ていなくもない。
この数刻何度あたらしい解毒薬をのんでも、ほれ薬と解毒薬のせめぎ合いは最終的にほれ薬の勝利に終わるのだった。 やはりほれ薬のほうは、マーク・レンデルにさきほど聞かされた話の薬のように「永続」の属性を得ていると思われた。
どうにか持ちなおしたアンリエッタは、なるべく長く正気をたもつべく話を続ける。 彼女が一方的に口を動かしているのは、才人の声があまり彼女の耳に入ると、情感の高まりをこらえきれなくなるためだった。
「実は貴族の反乱も、無理ないかもしれないと少しだけ思うのです…… 最近のわたくしの施政そのものが、彼らの敵意を誘発するものであったかもしれませんから……」
女王は「武器税」のことを話す。 諸侯の力をおさえ、平民を引きあげる政策の一環であるそれを。 赤らんだ表情を眠たげにとろかせながらも、この話をするとき瞳の奥には意志が光った。彼女なりに、こだわりがあることだから。
それでも精神が揺れているのか、いつのまにか語ることに弱音が混じっている。
698 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:48:27 ID:IdV3bW49
アンリエッタは芯をどうにか保ちながら、しかし沈鬱な声音で話をつづける。 先の巡幸の一連から、みずからの目ざす施政が、それまでより形を幾分か変え、鮮明になったと感じたことを。 できる限りそれを成しとげたい、という思いを。けれどもマザリーニの反対をはじめとしてつきまとう困難と、自分でもまた悩みを捨て切れないことを。
「改革はこの先も、多くの貴族の恨みを買うでしょうし……もしも大規模な反乱が起き、かえって国家の屋台骨をゆるがすようなことになれば、失政のそしりはまぬがれません。 ……ほんとうは自分でも自信がないの。巡幸のときのことがなければ、わたくしは貴族の力を削ごうとは、この先もずっと考えていなかったかもしれない。 そしてこれはけっきょく自分の、自分の罪悪感をごまかそうとしているだけかも、と」
静かに震えながら、アンリエッタは思い返す。 罪を問うような青い目を。【拙作SS】 唇をかみしめ、知らず知らずのうちに、黙って聞いている少年に問いかけてしまう。
「善政を敷くため行動しようとしても、発端がしょせん偽善ではないかと思えば……その結果も、安定していた国を乱すだけで終わるというのなら…… やはり、これも感情に翻弄されて、いたずらに国政を左右しているだけなのでしょうか……?」
重い心情を吐露されて、才人は目をふせて考えこんだ。 アンリエッタは胸を上下させながらも、それを妨げないよう少年の近くで静かに待つ。 ほのめく薄明としめやかな息づかいの中、時間がすぎてゆく。長く深く考えこんだ後、ようやく才人は顔をあげた。 彼はまず断っておく。「姫さま自身にわからないことは、俺にはなおさらわかりませんよ。ルイズと違って政治のことはたいして助言もできないです」と。
「ただ、俺の使い魔の力もそうですが、人間がやることの原動力ってたいがい感情がからみますし、結果がよければ発端とかが何でも気にしなくていいと思いますけど。 『その結果が出るのか自信が持てない』というなら、自分のやることが正しいのか、つねに考えながら進んでいけば……たとえ間違っても間違ったところまで引きかえせると思います」
アンリエッタはその言葉を真摯に受けとめ、気をぬけば崩壊しそうな理性に喝をいれて、意味を噛みくだいた。 たしかに政治は、結果で評価が決まるのだろう。 そして常に、この選択でよいのか考え続ける。終わることなく。
内容的にはけっこう厳しいことを言われたのかもしれなかったが、にもかかわらずアンリエッタはつい嬉しくなった。内容よりもそれを話すときの、少年の表情や口調の繊細な雰囲気に。 真剣に考えて忌憚なく話し、その上でなおもこちらを気づかっていることがはっきり伝わったから。 貴種の生まれ育ちゆえにアンリエッタは、他者の心のありようを察する能力が高いとはいえない。そんな彼女でも容易にわかる、情の深さ。それをこの少年は持っていた。
彼はたぶん誇りのため、またはこうして他人のためにどこまでも真剣になれるのだろう。うっかり意識したとき胸が熱くなり、(あ、駄目)と思いつつもゆらゆらと思考が雲散していく。
ちゅ。
アンリエッタに何度目かにキスされ、才人は固まった。 少女の手で顔を両側からはさまれて上向かせられ、ゆっくり唇で口元や頬をついばまれる。 ゆっくりといっても、それはアンリエッタがぎりぎりで踏みとどまっているがゆえである。
「ひ、姫さま、こらえろよ……?」
699 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:50:00 ID:IdV3bW49
「………………失礼いたしました……」
どうにかという感じで、少女が上気した顔を離す。髪や肌からは、先ほどのキスのように甘い香りがふわりと立ちのぼる。 才人はひそかに固唾をのんだ。 精神力を総動員して耐えているのは、実のところアンリエッタだけではなくなりつつある。
「というかあの、この体勢からして、ちょっと変えたほうがと愚見しますが」
才人が指摘した。彼は壁に体をつけてベッドに座りこんでいる。 そのひざの上にアンリエッタが腰かけ、才人の首を抱くようにもたれかかった姿勢で話しているのだった。 少女が首をふった。至近距離で栗色の髪が揺れる。熱情がしたたるようなささやき。
「だめです……いまではもう、わずかでも離れたらかえって自分を見失ってしまいそうで」
「だーもう、なんて厄介な薬だよ」
才人が苦悩のうめきをこぼした。 もともと「離れると心がひどく乱れて、自我を保つのもままならなくなる」とアンリエッタが同じ屋根の下をもとめたのだが、それでも最初は彼女もかなり耐えていた。 ベッドの端と端に距離をあけて座っていたのである。 それが時間が経過するうち、いつのまにか距離がちぢまり、気がつくとこんな姿勢になっている。
そのあとは才人が、何度か発作的にこらえられなくなったアンリエッタに、首から上を咬まれたり吸われたり。 愛の妖精でも赤面しそうな光景が現出しているのだった。
確かにいまの才人は一人きりの護衛である。 女王から離れるのはいろいろ問題あるのだが、これでは別の意味で二人とも危険だった。 うっかり過ちを犯したらシャレではすまない。
そんなわけで目下、才人は必死で心に城壁を積みあげている。 ルイズ達と連絡がとれるまでの辛抱だ耐えろ俺、と心中につぶやいてから、才人はふと思いだして、気になっていたことを訊いてみた。
「そういやなんで、薬の効果が発揮されたのが俺なんです? 晩の食卓で盛られたっていいますけど、あの薬は飲んで最初に見た者に効くと思ってたんですが」
アンリエッタはうろたえたように視線をさまよわせた。 晩餐では才人やルイズとのことをはじめとして、物思いにふけっていた。 結果として、思考にあわせて視線が、護衛として離れた位置に立っていた才人に向きっぱなしになっていたのである。
700 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:50:48 ID:IdV3bW49
どう言えばいいのか思いなやむうちに朦朧として、気がつくとアンリエッタはまた少年に唇を重ねている。 ごまかす意図のキスではないが、結果としてそうなりそうだった。
「ちゅ、ん、む、あむ」
今度ははしたなく薄い舌まですべりこませている。 先ほどの発作からほとんど間もおかない口づけに、面食らった顔をしていた才人がようやく反応した。顔をひいて唇を離す。 「姫さま、まずい、まずいからこれ」とうろたえ、アンリエッタの肩をつかんで離そうとする。
それに逆らい、少年の頭をかかえこむようにして、アンリエッタはなおさら深く唇を重ねた。 胸を満たすまろやかな情愛の切なさに、少女の瞳がうるんでいる。 口内で舌に舌をからめられて才人の手が、指をぴくぴくと引きつらせながらアンリエッタの腰にまわされかけ、どうにか硬直してとどまった。
才人にとっても、予想以上にきついのだった。 彼とて自分の精神力、というか我慢強さに自信がないわけではなかった。ルイズのほれ薬騒動のときも凶悪な状況だったが耐えきったのである。 ……が、彼とて木石ではなく、くわえて今のアンリエッタはある意味危険物そのものになっていた。
「は……ぁむ、ちゅぴ……かぷ」
「ひゃわわわわわ! そこやめろストップ止まれ!」
アンリエッタが少しずつ身じろぎし、その降らせる口づけが下に移動している。いつのまにかパーカーのチャックも胸まで引き下ろされていた。 キスが首筋を通って鎖骨まで達し、そこで鎖骨に甘く歯をたてられたあたりで才人はこらえかねて制止の叫びをあげた。 愛撫がこれより下に行くのを何としてもとどめるべく、とっさに腕を少女の背にまわして動きを拘束する。
優美な背をたわむほどに抱きしめられて苦しげに息をつきながら、それでもアンリエッタは才人の顔や首筋に口づけていくのだった。 見るものことごとくを魅せるような濃い色香が、花のように匂っている。
単なるほれ薬だけの投与のときとはまた違う。 内奥での薬と解毒薬の終わらないせめぎ合いが、抵抗する少女の苦悩と痴酔の入り乱れるさまとなって表面に出、言いようもない危うい美をもたらしていた。 昔、ほれ薬をのんだときのルイズも危険物と化していたが、今回の危機はあれに勝るとも劣らない。 なにしろ今のアンリエッタは朦朧としているぶん抑えがきかず、スキンシップ過多の傾向がある。
才人は上向かされる。 口づけが、黒髪に。 髪からまぶたの上。下に移動して唇に軽く。 唇から頬。頬から耳。
701 :黄金溶液〈中〉:2007/12/19(水) 00:51:41 ID:IdV3bW49
才人が無表情になっているのは、平静をたもつべく必死につとめているからである。 ……裏がえせば、精神力をふりしぼっても本気でヤバい局面が来ていることを悟ったのだった。 アンリエッタの「発作」は、どんどん間隔がみじかくなっている。くわえて威力もはね上がりだしている。解毒薬の効果が薄れていくためだろう。
「おい小僧、毛布を差し入れてや………………失礼」
マーク・レンデルが毛布を手にして小屋にふみこみかけ、即座にくるりと回れ右して出ていった。 開いたドアがもとどおり閉まる。
しかしこの一瞬、アンリエッタの注意がわずかにそれた隙をねらって、才人はどうにかあまり乱暴にならず彼女を引き離すことに成功している。 密着状態がちょっとだけゆるんだので、説得にかかる。
「落ちつけ姫さま、深呼吸して正気に戻れー……?」
「…………おちつ…………」
「そうそう、がんばって、踏みとどまってください!」
「……お、し……お慕い……して、おりま、すぅ……」
火照った態。ついに目を回しながら睦言まで口走りはじめた。 いいかげんに限界のようだった。 才人はふところから解毒薬の小ビンを取りだし、アンリエッタにのませるべく栓をぬく。
蒼白になりつつ、足りるかどうか目ではかったそれは、あと三回分もないのだった。本来なら節約するべきではあろうが。 「……朝までもつかな……」とのつぶやきには、彼自身の精神的耐久力のことも含んでいる。 30 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:14:25 ID:/8zwchxn \\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
アニエスたちのこもっていた林道沿いの小屋の前。
三隻のフネは大破して、木々の梢をへしおりながら林道をふさぐように墜落していた。 墜落船から今しがた下りてきた異形の魔法人形たちが、林道を後退する王軍側の必死の応戦を意に介しないかのように、ゆったりと前に進んでくる。 焚き火から離れれば、夜目のきかない人間たちがそれだけ不利になりそうである。
「血液はすなわち可飲黄金Aurum potabile」
アニエスたちの前方で、ウォルター・クリザリングが語りながら林道を闊歩してくる。 無味乾燥なその表情が、焚き火に赤々と照らされている。それでも不健康な青白い顔色。 焚き火の横には、トロールの魔法人形に殴り殺されたトライェクトゥムの兵が一人倒れ、その死骸に二、三体ばかりの魔法人形がおおいかぶさって、液体をすすり飲む音を立てていた。
「生命力、充溢せる命そのものの証だ。 だからそう騒ぐことでもない。この魔法人形らは傷つけられて〈黄金の血〉を流した。 体液を補充してみずからを癒さんがため、備わった本能的な行動をとっているにすぎない」
クリザリングの言葉はアニエスの横で血の気をうしなっているルイズに向けられている。 先ほど、ルイズがあげた「血を飲んでるわ」という悲鳴に応えているのだろう。
「赤、極まれば金となり、銀、死を得ては黒と化す。 血液は黄金に変じ、水銀は黒色回帰する。 錬金術師の理もさまざまあれど、『塔のメイジ』の系譜は赤を金に変じさせるべく目指してきた」
クリザリングが何を言っているのかアニエスには理解できなかったが、ただ明らかに見えることがあった。 人血摂取する異形たちの、王軍の弾丸や風の刃でついた傷口からは、血のように液体がたらたらと流れだしていた。 その色は黄金。
「生物の血液は、かれらの体内にとりこまれれば、そこに流れる黄金の液に同化されていく。 伝説を調べていたのならとうに気づいているだろう、そこの銃士隊の隊長殿。この人形たちは〈永久薬〉によって千年前から動いている。『塔のメイジ』の産物だよ」
クリザリングは歩いて魔法人形たちの最前線に出ると、手をあげて彼らの動きを止め、二十歩ほどの距離で王軍の面々を見まわしていた。 女王はいないな、とその色の悪い唇が動いた。
(最悪だ。直前に情報を得ていたのに、奇襲を許してしまった)
アニエスはほぞを噛んだ。 無灯火ゆえ、フネが小屋に接近するのを、すぐ近くにくるまで誰も気がつかなかった。 その前に、マザリーニが逃げてしらせてきたときに、すぐさま移動するべきだったのだ。 それでも森にはさまれた狭い林道にはまさか着陸できまい、と思ったのが間違いだった。
31 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:15:02 ID:/8zwchxn
(いかれている、何のためらいもなく降下させてフネを壊し、道をふさいで飛び降りてくるとは……)
魔法人形たちは数はこちらより多くない。五十体ばかり。 しかし、ことごとく巨躯で力が強い。しかもあのスフィンクスと同じく、弾丸や魔法を命中させても止まらない。あれより動きははるかに鈍いが。 王軍の攻撃をおそれる風もなくその魔法人形の先陣に、杖さえ抜かず泰然と立つクリザリングをねめつけ、アニエスは気力をふるいたたせて問いただした。
「なぜわれわれに弓をひく、クリザリング卿?」
問われた者は答えなかった。 正確には、答える前に悪意に満ちた叫び声を、ラ・トゥール伯爵がはさんだ。
「なぜかはわかっている!」
彼は杖をふって魔法人形たちに大石を次々と飛ばしていたが、このとき対峙する二人に割りこむようにしてクリザリングに杖をつきつけた。
「〈永久薬〉を奪われたくないのだ、この男は」
トライェクトゥムの都市領主は、王の森の森林管理官を指して、唇をまくれあがらせて糾弾する。
「マザリーニ様の話を聞いて確信したことがある。 そのフネ――風石なしで動くか、特別の風石を使っているだろう? おそらく、〈永久薬〉の作用か」
それを聞いて、だれもが息を呑んだ。 口の端に勝ち誇る笑みさえ浮かべて、ラ・トゥール伯爵は推測をつむぐ。
「最初から微妙に違和感があったのだ、ここへ来るときの迎えのフネが、風石を買って積みもせず、長時間一定の速さで飛んでみせたことに。 風石は一度に積みすぎれば船が遅くなる【2巻】から、こまめに買うのが普通だというのに。 速度が変わらないのは消費する量が一定であるように緻密に調節しているからだと思っていたが、マザリーニ様の話では動力室に立ち入った形跡さえまばらという」
交易船を扱おうとする商人の目線で気づいていたことを、得々と。
「聞いたことがあるぞ。永久薬は、物質の効力を無限に引き伸ばすと。それをフネを動かす動力に使う。するとどうなる? そのフネで、商いのために航空すれば、なにが利益になる?」
ルイズとマザリーニが顔を見合わせるのが、アニエスの視界の端にうつった。 そして、枢機卿が短く理解の声をあげた。
「そうか、動力費が単に浮くだけではない、森林管理官の任務をはたすためとして、クリザリング卿が政府に要求しつづけた風石…… それをすべてそっくり消費しないまま、元手なしの商品としたのだな」
風石はフネの航空には必須の動力であり、それ自体が商品となる。 長距離を、多くの荷をつんで航空する空の商船ならば、必然的に風石を大量に消費するのだから、浮く動力費からして相当なものだろう。 ラ・トゥール伯爵がうなずいた。
33 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:15:36 ID:/8zwchxn
「昼に続き、ご賢察と言わざるをえませんな、マザリーニ様。 しかし、それは氷山の一角にすぎない……そも、船団の航空記録が公文書にはっきり残るのは、フネは物資を補給するために港によらざるを得ないため」
動力としての風石。乗組員の食料と水。ほかは無くともいいが、長期の航空にはどうしてもこれらの物資だけは必要である。 そして、各地の港においてフネの寄港は記録され、商船団の出発地、積み荷、この先の予定地のすべては明らかにされる。
積荷の種類や多寡によっておさめる税の額もきまる。免税権を王に保障されていないかぎり、寄港するだけで関税をかけられるのは普通である。 なるべく港によりたくなくても、最低限の補給はせねばならない。 ……通常の遠隔貿易の船ならば。
「補給の必要、港ごとの課税。それらを無にする永久機関、まさに垂涎ものだな。……クリザリング、貴様がなにをしたか当ててやろうか? 公式に記録されているその先まで航空して商品を買いつけ、さばかせ……もしかすると闇の貿易であるのをよいことに、高利を得られる禁制品までをあつかったな? 港に寄らないため気づかれず、徴税官の書類記入をのがれた交易は、税がかからないことだけでも莫大な利益がふところに転がりこむというわけだ。 どれだけの利を叩きだしたんだ? 言ってみろよ」
「待ってくれ、ラ・トゥール殿」
アニエスはあの目の光を見たときより、この貴族と会話するのは気がひけたが、それでも引っかかることがいくつかあった。
「遠隔交易で商船を動かすとき、風石をクリザリング卿はちゃんと買っている。 それに風石の補給がいらないとしても、乗組員の食料や水は必要だろう。我慢させたとでもいうのか?」
「カモフラージュ用に買ったに決まっている、その風石も記録に残らないところで売りさばけばいいだけだ! そして食料も水も不要なのだろうよ。なぜなら」
ラ・トゥールは忌まわしげに唾を吐き、クリザリングの後ろに、異形らに混じってつつましく控える召使たちを指す。
「そいつらにはあの魔法人形どもとおなじく〈永久薬〉が使われているな? 館で戦ったとき、傷ついた者からは金色の液が流れたぞ。その液が〈永久薬〉と関係あるのだろう」
はたで聞いていたアニエスは深呼吸した――驚く話が多すぎる。
「はっ、他人に渡したくないのも無理はない、おぞましき業に手をそめて、さだめし金貨に首まで埋まるほど稼いだのだろうからな。それなら最初から、私と組みたいはずがなかったな。 〈永久薬〉を利用した闇の交易を秘匿するため、女王陛下に求婚するという茶番を演出し、陛下を怒らせて追い帰し、私のもちかけた話をうやむやにしようとしたんだな?」
糾弾を黙って訊いていた森林管理官がこのときようやく、わずかに面白がるような声を発した。
「おまえを見直した。金への執着からくる邪推で、そこまで頭をめぐらせられるとは」
ラ・トゥール伯爵の顔がどす黒く染まった。 それに頓着せず、クリザリングは「最後だけは的外れもいいところだがね」とつぶやいてから、こきりと首をひねって鳴らした。
34 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:16:09 ID:/8zwchxn
「手前の動機はともかく、行動自体はラ・トゥール、おまえの推測にほぼ沿っている。〈永久薬〉を作るだけで家財をほぼ食い潰してしまったのでね。 その上さらにクリザリング個人の研究を完成させるためには、資金が必要だった」
みずから〈永久薬〉を作った。 そのことがなんでもないかのようにクリザリングは言ってのけた。
「〈永久薬〉についてもいいところをついている。その本質は『固定せる生命にして動力』だ。 しかし誤解があるが、〈永久薬〉は人間に使うようなものではない。こいつらは皆、この手で作った人型の魔法人形だよ……まわりの恐ろしき姿の者たちのほうはスフィンクスを除き、『塔のメイジ』の産物だがね。 ところで、そろそろ終わらせていいか?」
倦怠感のこもった最後の声に、王軍の全員が身がまえた。 アニエスは拳銃で目前の男の心臓をねらい、ラ・トゥールとルイズが杖をにぎった。 ……ルイズは先ほど精神エネルギー切れで虚無が出せなくなっていた。すぐ回復したと考えるのは楽観も度がすぎる。アニエスはちらりとラ・トゥールを見た。
彼女のほうを見てはいなかったが、合図するまでもなくラ・トゥールはすでに詠唱していた。 アニエスも引き金にあてた指に力をこめる。
(この男は危険だ、遠慮などしていられるものか)
恐怖の叫びが背後からあがった。 アニエスの足裏から脳天を悪寒がつらぬいた。
ふり向くとルイズが、地面に転がっていた。パニックに陥ってかじたばたと手足をふりまわす彼女のマントは、さきほどの悲鳴の一瞬に獣の爪に引き裂かれてずたずたになっていた。 驚いて転んだため一撃が当たらなかったらしく、奇跡的にルイズは傷ひとつなかった――今のところは。 跳躍を終えたスフィンクスの魔法人形が、地面に降りたって獲物を今度こそ引き裂くべく身を返したところだった。
(し……しまった!)
アニエスは息をのんだ。 前方のクリザリングに注目しているうちに、林道をはさむ横の森をこの魔法人形はとおり、ぎっしり詰まっている近衛隊の中にとびこみ、アニエスたちの背後をおさえたのだ。 詠唱を中断させられたラ・トゥール、それに恐慌の声をあげて四方に後じさる兵士たちが、てんでに杖や銃をスフィンクスに向ける。アニエスは泡をくった。
(馬鹿、こんな近距離だと同士討ちになる!)
「ああスフィンクス、ちょっと待て。 ラ・トゥール、おまえは土系統だったな? ゴーレムを呼びだせばおまえが真っ先に標的だ。言っておくが、必ず死ぬぞ」
35 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:16:59 ID:/8zwchxn
クリザリングの言葉にあわせ、人面獅子身の怪物が、黒目のない目で一同を見た。 その言葉に嘘はないことが、アニエスにはわかった。この魔法人形の速さなら、この距離に近づけばだれでも即座に殺せるだろう。
「そいつは『塔のメイジ』ではなく、手前みずから作った特別製でな。素早く、また飛ぶ。たとえゴーレムと相対しても、敵の振りまわす腕を軽々とかいくぐって操り主を殺すだろう。 くわえて〈永久薬〉を使っており、物理的に破壊しつくされねば止まらない。数発ていど銃弾や魔法を当てようと無駄だ」 抑揚もなく、淡々と、クリザリングはそう言った。拳銃を突きつけられていることなど目に入らないかのように。 アニエスはその心臓から銃口がぶれないように、また声を震わせないように注意して言った。
「……たがいに王手というわけだな」
「まさか。対等の状況だと信じているのなら、ためしに撃ってみればよい」
こともなげに森林管理官が言う。 はったりだと思おうとしながらも、アニエスは急激にふくれあがる絶望に呑まれかけた。衝動的に引き金を引きそうになり、すんでのところでとどまる。
「手前が殺す必要があるのはそこの少女だけだ。塔を暴かれる可能性は徹底してつぶしたい。これでもクリザリング家は塔の守護者なのでな。 その少女を引き渡すなら、無用な戦いは避けてもいいが」
「よ――よく言えたものだ! 話を聞けば、貴様自身が塔に踏みこみ、〈永久薬〉を作って私利をむさぼったということではないか! なにが守護者か」
「そうはいえど、塔も〈永久薬〉も本来、クリザリング家に属するものだ。『塔のメイジ』はクリザリング家の祖でもあるのだからな。 あらゆる意味で〈血〉が、われらの錬金術の理なのだ。 現に、この場の魔法人形のほとんどは塔のメイジ謹製だが、かれらも手前の意のままに動く。幽閉された塔のメイジ自身と、滅びたアルビオン王以外、この関係に干渉は――」
風の鳴る音がして、言葉が切れた。 クリザリングのわき腹に浅く矢が突き立っている。
無表情に体の横にささった矢を見てから、森林管理官が攻撃の来たほうを向きなおった瞬間、第二矢、三矢、四、五、六と飛矢がまとめてその体を襲った。 最後にサーベルで鉄鍋を突いたような音とともに、森林管理官の頭が殴られたように真後ろにがくんと倒れた。 額の辺りを打った矢が一本、はねかえって地面に落ちていた。
アニエスたちが目を点にする間もなく、林道の横の森から、毛皮やウールの服を身につけた男たちが六、七名ばかり出てきた。 手には弦がいまだ震える弓。 先ほどのスフィンクスと同じく、森からの奇襲だった。ただし攻撃されたのは今度はクリザリングであったが。
36 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:18:07 ID:/8zwchxn
森の陰から木々をぬうようにして矢を標的に命中させた彼らは、だれもが重苦しく目をぎらつかせて、矢を体に突き立たせてよろめいているクリザリングを見つめていた。 そのうちの一人が弓をそばの一人にわたし、手に鉈をもって歩み寄った。
「『俺たち領民を先に裏切ったのはあんただ、ウォルター』 このような日が来たときはそう言え、とマークに言われている」
手で顔をおおって背をまるめたクリザリングに対し、硬い表情のその男は鉈を頭上にふりあげた。 落下したその鉈が、がちりと音をたてて止められた。 クリザリングは右手で顔をおおったまま、左手を上にあげてとっさに防ごうとしたらしい。鉈はその手首に半分ちかく食いこんでいた。 わずかな感慨をこめた声が、顔をおおう指のあいだから漏れた。
「久しぶりだな、ダン」
男の顔が引きつった。名を呼ばれたからではない。 このとき、森から現れたほかの男たちも、アニエスも地面に転がっているルイズも、マザリーニもラ・トゥールもクリザリングを凝視していた。 深淵から這いでてきたおぞましい何かを見る目で。
「エドガー、ジョー、サイモン、ジョフリー、ポインツ、ケイン……おまえたちももちろん忘れていないとも、わが旧友にして臣下らよ。 ほうっておけば死ぬか去ると思っていたが、マークの下で意外にしぶとく耐えるようだ。 いままでは見逃してやるつもりだったが、いまのは久方ぶりに癇というものにさわった……おまえたちは皮をはいで吊るすことにする」
焚き火に照らされる中、黄金の液体が、ぽたりぽたりと地面に落ちる。 なかば切断された左手の傷。そこから、金色の血がゆるゆると流れていた。 鉈をふりおろした男があえいだ。
「ウォルター様、あんたは……」
その声を最後まで言うことなく、迅速にとびついた獣がその男を押し倒し、一瞬にして歯でのどを声帯ごと食いやぶり、断末魔の声さえを奪った。 スフィンクスがバリバリと男を引き裂く音のなか、「ウォルター・クリザリング」は顔から右手をはなした。
額の、破れた表皮の下には鋼の仮面。 絶たれかけた手首の切断面からは、黄金の液がぼたぼたと落ちる。 全身に浅く突き立った矢。それでどこかがいかれたのか。身動きのたびに。 がちりがちりと――鉄の音。
スフィンクスの威圧から逃れて、地面からほうほうの態で起き上がっていたルイズがごくりと息をのみ、無意識にかアニエスの袖をつかんだ。 アニエスはそっとその手をはずさせ、拳銃をやや下げながらはき捨てた。
37 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:18:47 ID:/8zwchxn
「貴様自身が、魔法人形だったとはな」
「ウォルター・クリザリング」の鈍色が混じる顔がアニエスとルイズを向く。 折からの強風を受け、焚き火が天を焦がすほどに赤々と、森の闇を圧しながらひときわ燃えさかった。
「女よ、たしかにこの身は魔法人形だが、脳と心臓は『ウォルター・クリザリング』のものなのだぞ。だから、それらの急所には鋼の板を埋めこんである。 塔の系譜の錬金術の秘奥、〈永久薬〉がなんであるか、昼には語らなかったことを教えてやろう」
「ウォルター・クリザリング」は胸を指した。
「古来より『生命力にして動力』そのものをつかさどる、心臓と血液だ。 生きた人間のそれを体内で変質させ、生成する〈黄金の心臓〉と〈黄金の血〉だ」
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真夜中。森の集落の小屋。
蒼涼な光をはなつ星辰の下、木のドアを開けて戸外によろめきまろぶように出てきた少年がいる。 才人は出入り口の横の雨水を満たした水盤にとりつくと、手を噛むような冷たさを問題にせずその水をすくい、顔に数度ぶっかけた。 あごからしずくをぽたぽた垂らしながら、放心したようにその場にしゃがみこんだ。
「た……耐えろ……俺……」
いまは正直、煩悩を岩のごとき意志でおさえこんでいる状態。 この夜に彼が内心でおこなった、劣情をやりすごすための努力といったらそれはもう、同年代の男から賞賛を受けられるレベルである。 そういうわけで才人は、脳に熱がのぼりすぎて真剣に鼻血が出る寸前なのだった。
と言っても、実は精神力だけで耐え切れたわけではない。 けっきょく今も解毒薬を使って逃れてきた。薬はもうあと一回分しかない。
「……あの人、なんであそこまでエロい空気を出せるんだ……」
いまは小屋のベッドに横たわって荒い息をととのえようとしているであろうアンリエッタのことを、苦悩をこめて口にする。 彼女はさっきまで、のんだ薬が肌から微細な霧になってほむほむと立ちのぼっているような、蠱惑的な濃い色香をさんざんにふりまいていたのだった。 キスはじめとする過度のスキンシップを受けながら、あれを耐えるのは拷問に近い。というか拷問である。犠牲者の少年はそう評する。
38 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:19:43 ID:/8zwchxn
気がつくと、気配もなく隣にマーク・レンデルが立っていた。 黒々とした夜気のなか、元森番は水盤に手をつっこんでその水を口にふくみ、うがいしてぺっと地面に吐いた。 それから口元をぬぐって、ぼそっと言った。
「……あきらめて、なるようになれば?」
「冗談じゃねえ!」
間違いですむこととすまないことがある。 この場合相手が相手なので、とくに。 くわっと目をむいた才人に対し、マーク・レンデルは他人事そのものの無責任な意見をのべた。
「不可抗力ってことで開き直ればいいじゃないか。上品な言い方で、ええと、一夜の夢ってやつだな。 あの娘も、お前さんのことが満更でもないようだし」
だからそれが薬のせいだよ! と才人は叫ぶ。 おぼろに好意を向けられていたとおぼしきの一連のことは、つとめて考えないようにしている。 そのことを意識したら、小屋内にもどったとき抑えがきかなくなりそうなので。 意識しなくても、このままだと遠からず確実に理性か脳の血管かが切れる。
「おい、まだ連絡つかないのかよ!? あ、いや、乱暴な言い方ですみません。 でも正直もう寸刻も待てねーんだよ!」
「落ち着けって。もうじき弟分たちが帰ってくるから。 それより、そこまで必死に拒むということは、あの娘はよほど身分が高いか、重要な人物だな? おまえら、トリステイン王家の関係者だろう」
寒月の光を反射する、鋭く透徹するような眼が才人を見た。 ぎくりとして才人は口をつぐむ。マーク・レンデルは鼻をならした。
「あの娘の肌着は上質のもの、おまえのマントには王家の百合の紋。 それ以前にあの娘の挙措で、かなり身分の高い貴族だというのは丸わかりだ。 これでもアルビオン王家のあったころには従軍していたんでな、世間を多少は見ている」
才人は顔をしかめて考えた。 これ以上ごまかすのは無理がある。 それに、おそらくこの男なら自分たちに害を与えることはないだろう。正直にすべてを話して、あらためて協力してもらうほうがいい。 一応部屋に戻ってアンリエッタに意見を訊いてみようと思い定めたとき、小さく鋭い声が背後の森のなかから聞こえた。
「マーク!」
39 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:20:28 ID:/8zwchxn
駆けどおしだったらしく、激しい勢いで藪のなかから飛びだしてきた男は、マーク・レンデルが今夜放った斥候隊の一人である。 その男は足早に二人のそばに歩み寄り、息を切らしながら一気呵成に告げた。
「ダンが死んだ、ウォルターは怪物になっていた、彼はトリステインの女王と敵対している。 われわれは王軍と共闘……いや、先導して逃げている。いまは敵の鼻面の先だ。まもなくここに来るかもしれんぞ」
マーク・レンデルはその支離滅裂にさえ聞こえる報告に、すぐには目立った反応を返さなかった。 一言「ダンが?」とつぶやいて、沈黙し、報告をもたらした男が焦れてもう一度口をひらきかけたころにようやく手をあげた。
「全部、わかるように話してくれ」
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近衛隊およびトライェクトゥムの兵たちは、わずかに月光さしこむ森の中を、足をもつれさせ木の根につまずきながら走っている。 全力疾走ではない。兵の体力がもたないことを考慮に入れ、先導する無法者たちは敵に追いつかれず長く走れる速度を見きわめて走っている。 すぐ後ろを走っているルイズをアニエスは何度もふりむき、その無事を確認した。
クリザリング卿は、ルイズを優先して殺すつもりのようだった。主君の腹心に一指たりとも触れさせるわけにはいかない。 目の前では森の無法者たちが、マザリーニを交代で背負って走っていた。
運動不足がたたってか速度が落ちてきたルイズを、声で鞭打つように叱咤する。
「足を動かしつづけろ!」
汗を滝とながし、ぜっ、はっ、と荒い息をつきながらも、ルイズは一言も言い返さない。 無駄口をきけないほど酸素を消費していることもあるが、止まったら死ぬのが目に見えていたのだった。
落ち葉を蹴立て、柔らかい腐葉土をふみしめて逃げる大勢の人間たちのあとを、木の枝をへしおる破壊の音が追跡してくる。 トロールやミノタウロスなどの巨体の魔法人形が、密生した森の木の枝にひっかかり、それを強引に突破してくる音だった。
だが本当に恐ろしいのは、音をたてない人形たちだった。 サイズはそう大きくないが、それゆえ木々の間を縫うように走れ、枝に邪魔されることもない。大蛇、大くちばしを持った大きな走る鳥、クリザリングの館にいた人間そっくりの魔法人形。 不運にして追いつかれた者が引き裂かれているらしく、ごく稀にではあるが背後から魂を恐怖の色にそめる絶叫が聞こえてきた。
その中でも、あのスフィンクスがもっとも危険な存在だった。 ややのろのろしたほかの魔法人形と一線を画して、動きが速くすべらかだった。おそらく本物の獣なみに。これは追いつくどころか、先回りさえしている。 アニエスはかたまって走る先のほうに数度、俊敏な影が横切るのを見ていた。 ほかと離れて走っている者がいればやぶの中に引きこみ、喉笛を食いちぎるつもりなのだろう。
(今夜「王の森」で狩られているのはわれわれだ、畜生)
40 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:21:18 ID:/8zwchxn
「……あと少しで防御できるところに出る! そこまで行けばなんとかなるから、走ってくれ!」
目前で先導して走っている、マーク・レンデルの一味の一人がそう怒鳴って伝えてきた。 アニエスは怒鳴り返す。
「訊きたいんだが! 陛下の所在が不明だ、どこにいるか知らんか!?」
「それっぽい娘ならこっちで保護してるよ! 剣を持った黒髪のガキも一緒だ!」
銃士隊長の最大の心痛が、かなりの程度やわらげられた。 ほっとしてもそれで気をぬくわけにはいかず、木漏れる月光をたよりに、木々にぶつからないよう注意しながらルイズの手を引っぱって疾駆するアニエスだった。
逃げながら脳裏に、先刻の「ウォルター・クリザリング」の金色の血をこぼす人ならざる姿が浮かんだ。
(あの怪物は言ったな、自分自身が〈永久薬〉でもあると)
その言葉が記憶によみがえる。
『永久薬は、〈黄金の心臓〉と、それに従属する〈黄金の血〉で構成される。 しかし、〈永久薬〉はそれ自体では生物の体になんの影響もおよぼさない。あくまで器物に作用するものだ。 不滅を約束する〈黄金の血〉を受けた器物は特性を無限にひきのばされるが、血の主である〈黄金の心臓〉の持ち主に従属することになる』
…………あのとき、焚き火燃えさかる林道で、金色の血をこぼす傷口をふさごうともせず、「それ」は語っていた。
『この身は手を加えた魔法人形だ。しかしこの場のほかの人形とは決定的に違う。 かれらは〈黄金の血〉を体内にそそがれ、または浸されたに過ぎない……〈黄金の心臓〉そのものを搭載した魔法人形は、この場ではこの身ただ一体だ。 手前は「ウォルター・クリザリング」であり、黄金の血の主の一人であり、〈永久薬〉そのものでもある』
『クリザリング卿…… かつてミノタウロスの体に自分自身の脳を移植したメイジがいたと、タバサが語ったことがあるけれど【外伝2巻】……まさかあなたは、魔法人形そのものに』
おののきをこめた声で問うたルイズに、クリザリングはあっさり首肯した。
『そういうことだ、少女。脳と……永久薬と化した心臓をね。 他者の心臓と血液では、脳が拒絶反応を起こすと塔の伝承にあったので、この試みを成功させるにはクリザリング自身の心臓を変えるしかなかった』
だれもがこの怪奇な話に注意をうばわれていたが、アニエスは気づいた。 動きを止めていた魔法人形たちがいつのまにかひたひたと動き、一部が林道の脇の森に入って移動している。兵士たちを半包囲するように。
41 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:22:01 ID:/8zwchxn
クリザリングの幻惑するような雰囲気にのまれ、聞き入っているうちに今度は包囲されかねない。 二度もおなじ手をくらってはたまらないとばかりに、アニエスが注意喚起の声をあげる矢先、おなじことに気づいたらしき弓矢の男たちの一人が声をあげた。
『森に逃げこめ!』
一同がとまどったのは一瞬だった。 人形たちがその叫びを合図に、静から動に急激に転じて襲いかかってきた。 近衛隊もトライェクトゥム兵もはねるようにして反対側の森、その暗い木々の間にいっせいに転げこんだ。
獲物役と狩人役はそのときから変わらないまま、王の森を舞台にして命からがらの逃走劇がつづいている。 逃走するあいだにある程度の死者が出るのは、どうしても避けられなかった。メイジたちは最初こそ背後を向いて風の刃をとばしたり石の壁を立てたりしていたが、散発的なものでは大して効果はなかった。
しかし森に逃げこむことを提唱した男たちには、ある場所まで逃げこめば防戦の目処がたつようである。走りつつ共闘をもちかけられ、一も二もなくアニエスは首を縦にふったのだった。 彼女とて、こんなところで死んでたまるかという思いがある。 考えることがいくつもできていた。
(クリザリングが認めた闇の交易による莫大な富。それはどこへ行った? なにに使われた? すべてが奴のいかれた錬金術の研究についやされたのか?)
先年の事件と安直に結びつけるのは早いとしても。
(それに、港の公式記録に載っていないとしてもそこそこ規模のある商取引を行えば、商品や貨幣が市場に出回ったときに、市場に密着した関係者は感づくはずだ。 よほど慎重にやらなければ簡単に足がつく。十中八九プロの商人で協力者がいる)
走りながら考えこむ様子を、女王の身を案じていると思ったのか、森の無法者の一人がやや息を乱しつつアニエスに話しかける。
「娘は傷ひとつ、ないから安心するといい、いまごろは黒髪の、小僧といちゃいちゃしてるよ」
「ああいや、それなら安心……ん?」
「……そこの、男ちょっと待、ぜー、ぜひ、待ちなさい。 なんつったのよ今」
アニエスの後からすぐ、地獄の鐘が震わされたような声がきこえた。 走りつづけて息絶え絶えのルイズが復活していた。眼光が殺気をのせてギラついている。 紅潮した顔に汗をおびただしく流して、泡をふきそうなほど呼吸を荒くしながら、羅刹もかくやという表情。その剣幕に後ろをむいていた男が怯えを顔にうかべる。
「いや、なんか娘のほうが『ほれ薬』、を盛られてるとか…… 森で拾ったとき、小僧と熱烈にキスしてたからな。あれ、あの娘が女王なら、これってスキャンダル?」
生死の境とも思えないほど能天気な物言い。普段からそういう奴らしく、直後に並んで走っていた仲間からも頭をはたかれている。 ルイズがなにか穏当でないオーラを脳天から噴きあげている。フシューと音が聞こえそうだった。
42 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:22:41 ID:/8zwchxn
「ぜはっ……あのワンコロじょ、上等だわね、はっ、はっ、なんだかアニエス、虚無がいくらでも撃てそうな、気が、してきたわよ急に」
「……貯めてろ」
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アンリエッタはベッドの上に横臥して丸まり、熱いため息をもらした。 体内の二種類の薬の争いになやまされ、肩を抱くようにして耐えながら、さんざん少年に醜態というか痴態をさらしたことにも懊悩していた。 こうして正気にたちかえってみると、恥ずかしさに顔が燃えあがる。
「ああもう……」
目を閉じ、やるせなさをこめてつぶやく。 ルイズと争う気になれず、才人のことはあきらめようと思ったのに、目下の状況は距離を置くどころか真逆をいっている。
こんなことでいいはずがない。 ないのだけれど、今も彼がそばにいないだけで胸がうずく。 まがりなりにも抵抗していながらこれなのだから、終わらない薬の効果に完全に負かされれば、強いられた想いに人格まで変わってしまうかもしれない。
アンリエッタは唇を、血がにじみそうなほど噛みしめた。
若くして選択肢のほとんどなかった彼女の人生だが、心で自由に思うことだけは人並みに許されていたのだ。 それまで強制されるのは、耐えられない。 たとえそれが、相手が才人でも。
信頼がおけ、意識もした相手。だから、晩餐の席にいた彼以外の他者に薬の効果が発揮されるよりは良かったのだろうけれど。 どこまでが自分の心で、どこまでが薬によって歪められたものか、それがわからなくなる状況はやはり許せなかった。 怖いのは解毒薬がうすれて、盛られた薬に深く侵食されていけば、その許せないという思いさえ消えてしまいそうなことだった。
が、小屋のドアが音をたてて開くと、才人が戻ってきたことに嬉しさを覚えてつい起き上がってしまう。 浮かびそうになった緩んだ笑みは、少年の後ろからマーク・レンデルが続いたのを見て、どうにかおさえこんだ。
「女王陛下」
マーク・レンデルは入ってくるやいきなりそう呼びかけ、アンリエッタの足元にひざまずいた。 ぱちくりするアンリエッタの前で、「陛下のもとで、奸悪なる森林管理官ウォルター・クリザリングを討たせていただきたい。わが弓と心をささげ奉ります」とこっけいなほど真剣に、その男は臣従の誓いを述べた。
困惑気味に、アンリエッタは才人を見た。才人が(彼はもうぜんぶ知ってる)という意味合いのうなずきを返す。 女王はベッドにきちんと腰かけて、目の前でかしこまる男に言った。
43 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:23:14 ID:/8zwchxn
「隠したのは申し訳ありませんでした。わたくしはあなたが呼びかけたとおり、非才ながらもトリステインの王位にあるアンリエッタです。 ですがあなたはアルビオンの民ですから、必ずしもわたくしに臣従せずともよいのですよ。共闘してくれるのならば、きちんと報いますから」
「いいえ、陛下。 いやしくも自由の民マーク・レンデル、サーの称号は持たねども、騎士道にのっとりハルケギニア第一の尊貴なるレディにして王侯たる方に尽くすのは、本懐にございます。 なんとなれば我々、王の森の森番は、平民ながら代々の王党派。アルビオン王家に忠誠を誓った者たちでありました。王軍の弓兵として訓練を積んだこともございます。 トリステイン王家はわれらが王家とことに血縁濃く、かの反逆貴族の群れレコン・キスタを破滅させてくれた人とも聞き及んでおります。この弓は陛下にささげる所存でございます」
うやうやしく垂れた頭をいっそう深くしたマーク・レンデルの背後から、才人がやや焦れた顔になって急かした。
「丁寧なのはいいんだけど、早くしないとまずいんだろ。 姫さま、このおっさんと押し問答してる時間無いから。敵がもうすぐここに来るって。急いで立ち退かないと」
それに対し、マーク・レンデルは焦らない態度をくずさない。悠長に見えるほどである。
「坊主、ちょっと待て。いろいろと陛下に仰がねばならんことがある。 陛下、あなたの指にはめているそれですが……ああ、やはりそうなのですか。 ――永久薬の効果を破壊できる方策に心当たりがあります。塔に向かわれますか?」
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林道の喧騒は、兵士と魔法人形の群れとともに去った。残っているのは三人の召使、いや、三体の人間型魔法人形である。 すっかり深閑とした林道に立って、「ウォルター・クリザリング」は体に刺さった矢を一本一本抜いていた。その手つきは作業そのものである。 痛みはない。焦る必要もなかった。 ただ、手首のパーツは塔で補修する必要があるだろう。
「そうだ、手前は『ウォルター・クリザリング』だ……それ以外のなんだというのか」
自分自身に納得させるように、彼は焚き火に照らされた左手と黄金の血をみつめながらつぶやく。 その物静かな言動は逆に、自分自身が何者であるか完全には確信できないことを示していた。 彼は心さえも根底から変わった。人間としての情熱の大半を失ったその変化は、いつから起こったものか、なぜ起こったのか彼自身にもわからない。
この魔法人形に脳を移してからか。 〈黄金の心臓〉を得たときからか。 最初に、手の届かぬ少女を得たいと熱望し、塔に踏みこんだときからか。
昔の、繊細で神経質な御曹司であったウォルター・クリザリングは、いまや知識と懈怠と気まぐれと義務感よりなる、動きはするが壊れている時計のような存在になった。
44 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:24:35 ID:/8zwchxn
ルイズや才人がこのことを知れば、かつてタバサから話されたあのミノタウロスの末路を、戦慄をともなって思い返したかもしれない。 ミノタウロスの体に脳を移したメイジは、やがて体に脳がひきずられ、自身の行動が怪物そのものになっていったのだ。 そのことはクリザリングが知る由もなく、また彼の精神に影響を与えているのが魔法人形の体か、〈黄金の心臓と血〉であるのかすら定かではないが。
「実現してみるとこんなもの、か。 技術上の失敗なら克服できても、到達して執着が消えてはどうにもならんな」
何千回も繰り返してきた分析を、いちいち口にする。 ここ数年、この体になるまでは、彼はみずからの計画を狂気に近い熱意をもって行ったのだった。
政変のおりは研究を中断させられないため、レコン・キスタ内の人脈を活かし、革命という酒に酔えないほど腐った役人に賄賂を贈りつづけることで難を逃れた。 代王政府内部にも同様に、ただし人脈はゼロであったのでさらに多くの金を積んだ。 〈黄金の心臓〉を体内に錬成することが叶ってからは、自分からしたたる〈黄金の血〉にひたした風石を利用して資金をかせいだ。
権力者から不干渉を買ってそれからも、研究はつつがなく続けられた。 彼は、「塔のメイジ」の残した知識から、さらに一段上へと研究をすすめる。 自分自身を模した魔法人形を作り、それに脳と心臓をうつし……それとは別の、計画のもうひとつの肝要にあたる最後の業も、そのころにはなし終えていた。
だが、最終的に彼の計画は破綻した。 錬金術的肉体編成という一面にかぎれば、完璧な成功といってよかっただろう。失敗したのは、そこに宿る精神なのだった。 この身でも、最後の業でも。
「さまざまな犠牲をはらって、手に入れたものが『永遠の無感動』。やれやれ、喜劇にもならないな」
クリザリングは自嘲する。おのれを哀れむ色さえ今はないが。 あれほど望んだ魔法人形への転化を果たしたあとに心を占めたのは、ただの虚である。生に喜びを感じない。不老も、研究もどうでもよくなった。 彼の行動の原因となったアンリエッタへの焦がれでさえ、いまの彼にはわずかな情動しかもたらさない。
心にいちいち翻弄されていた過去のみずからを省みて、その卑小さを嗤笑するとともに、羨望をかすかに抱くのがいまの彼である。
……皮肉にも、それだからこそかえって、「ウォルター・クリザリング」であることにこだわる傾向が彼にはあった。 「かつての自分ならなにを望むか」ということを行動基準の重大な柱として置く。 結果、怠惰ながらときに感情で動く人間のようにふるまおうとして、その行動は他者の目にはかえって気まぐれで奇矯なものと映るのだが。
その彼の心にも、いまだ義務として「塔を守る」ということは焼きついている。 金策でも、永久薬そのものや塔の知識を売ればもっと莫大な金が手に入っただろうが、それは考えることもできなかった。
クリザリング家の千年間守ってきた塔。 錬金術師の工房にして、永久薬を作った「塔のメイジ」の幽閉所。
45 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:25:09 ID:/8zwchxn 「アルビオン王が許しを与えに来るのを、最上階で待ちつづける『塔のメイジ』…… 生きているかどうかも胡散くさいのに、それを幽閉しつづけるというのも馬鹿らしい話だがな」
実在したとはいえ「塔のメイジ」や永久薬にまつわる伝説には、疑わしい話が多いと彼も思っていた。 その一つが、「永久薬を自身に使い、塔のメイジは最上階で千年間生きつづけている」というものだ。
「無意味だな……永久薬は生物に直接投与しても効果をおよぼさない。 塔のメイジはおそらく自分の心臓を永久薬にしたのだろうが、それでも血が〈黄金の血〉に変わるだけで、われとわが身に変化がないのは、このクリザリング自身がよく知っている」
〈黄金の血〉どころか〈黄金の心臓〉を体内に錬成した人間でさえ、自分自身が不老不死になるような効果は持たない。あくまで、効果は器物に作用するのである。 だから過去のクリザリングも、魔法人形に心臓と脳を入れて「不老」に少しでも近づくという計画を立てたのだ。 塔の最上階は閉ざされ、「塔のメイジ」の姿など彼は見たこともない。 異形の魔法人形兵が塔のメイジの〈黄金の血〉で動いているのだから、生死はともかく〈黄金の心臓〉は残っているのかもしれないが。
「どのみち、クリザリングは守ることを望む、千年間わが家系の役目だったのだから。 そうとも、『アルビオン王が許しを与えてそれを解き放つまで』……」
彼の首がしゃっくりのように一度ゆれた。 なにか看過してはならないことに気づいたように顔をしかめる。
「いや、いや、待てよ……塔の錬金術の系譜は『血』が基本だ。 よもやとは思うが……」
つぶやいて、彼は焚き火から離れる。 金の血液をぼたぼたとこぼしながら、三体の人形をともない、夜の林道を一方に向かって歩きはじめた。
………………………… ……………… ……
その姿が濃い闇の奥に消えてしばらくしたころ。 一羽の緑色の小鳥が、rotと鳴きながら焚き火のそばに舞いおりた。 小さな足ではねるように、「ウォルター・クリザリング」の立っていた地面に近寄る。
こぼれた金色の液体。 粘性が高いのか地面にしみこまず、水銀のように林道の上に、てのひらほどの大きさで広がって風にさざなみだっている。
それを、小鳥はのぞきこむ。 短いくちばしが開き、ミミズのような赤い長い舌が出てきた。 小さな体のどこに収納されていたのかと思うほど、するすると伸びてくねる。 火の明かりと黒闇に狭まれた空間でほどなく、猫がミルクをなめるようなぺちゃぺちゃという音が聞こえた。
46 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:25:33 ID:/8zwchxn
\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
林道はわざわざ避けて、冷やく湿った香りのする森のなかを歩き続け、だいぶたつ。 まだ東の空は白んでいないが、日没より夜明けのほうに時間が近くなっている。
数人ばかりそろっている森の一味に先導されて、才人とアンリエッタは塔に向かっていた。 前方のマーク・レンデルに、たった今駆けもどってきた斥候が小声の早口で要求していた。
「俺たちは順調に魔法人形どもをここから遠くない『谷』の一つに引きこんでいる。森に散らばっている仲間も知らせを受けてそこに集まった。 あんたが指揮をとらないと、マーク。あんたの副官だったダンは死んだんだぞ」
「ダンのことは聞いた。俺はまず陛下を塔に案内せねばならん。どのみち同じ方向に向かってるんだ、あとから行く。 だが、トリステイン軍人のお歴々もいるようだし、指揮はそっちにまかせたほうがいいだろう」
苔がなめらかに地面をおおい、羊歯が群生している場所で、マーク・レンデルは振り向いた。
「いよいよ塔の近くまで来ました、陛下。しかし敵の部隊もその近くに来ます。心してください。 坊主、おまえ剣を持ってるが、いっぱしに戦えるか?」
「ああ、そっちのほうは自分で言うのもなんだが心得はある……ってかさ、一つ訊きたいんだが」
才人は機嫌悪く鼻を鳴らした。 その背中で、背負われたアンリエッタがくるくるきゅーと目をまわしている。
「俺が塔に行けないか訊いたときは『やめとけ』と言ったくせして、いまさら行こうって……なんだよそれ?」
その後の夜を耐えてた俺の苦悩はなんだったんだ、と才人は不機嫌なのだった。 マーク・レンデルはそっけなく答えた。
「言っただろ。塔にウォルター以外で入れる可能性があるなら、陛下ぐらいなのさ。 陛下の正体を知らなかったんだから、ただの小僧や娘っ子を塔に行かせるわけにいかないと思ったってしょうがないだろう? おまえがすぐ教えてくれればよかったのに」
それを言われるとぐうの音も出ない。 が、才人はなおも疑問が尽きたわけではない。
「それだよ。 『クリザリング家の当主、それに同道した者以外では、アルビオン王のみが入れる』って、姫さまはアルビオンじゃなくてトリステインの……わひゃう!?」
47 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:26:14 ID:/8zwchxn
才人はアンリエッタを背負ったままその場で少しばかりとびはねた。
「ひゃひ、姫さま、耳をはむはむしないでくれ! 耳を!」
「……楽しそうだな」
「どこがそう見えるんだよ!?」
「騒ぐんじゃない。一応見張りは四方に放っているが、ウォルターの手勢が近くにいるかもわからんのだぞ。 それで陛下が落ちつくんなら、だまって耳くらい食わせとけ坊主。 入れるかもしれない、いちおうの根拠はあるのだ」
………………………… ……………… ……
闇の色は森でも場所ごとにちがう。 森がひらけた場所では、月光が地面を刺すほどにふりそそぐ。
そのような神寂びた青い闇の中、古びた白の尖塔が立っている。 遠い昔には白亜でできたような美しい建築物だったのだろう。 いま、ただよわせる陰々滅々たる雰囲気は、その前に立ったものに息をわれしらず呑ませた。
この塔の下まできて、はじめてマーク・レンデルが才人たちに緊張を見せていた。 剣を持った三人の、召使の服装をした男たちが、塔の扉へつづく空堀の橋に立っていた。
背負った女王ともどもぐったりとして、荒い息を吐いていた才人が顔を起こす。
「あ。あの人たち、館にいた……」
その言葉が終わる前に、マーク・レンデルおよび部下たちが背負っていたイチイの長弓をかまえ、矢を射出している。 狙いあやまたずそれぞれの矢は、すべて橋の上の三人に命中していた。男たちはよろめきもしない。
声をのむ才人の前で、森の無法者たちはたちまち次の矢をつがえ、第二矢をはなっていた。 みずからの矢が一人の首をつらぬくのをちらと見ただけで、マーク・レンデルは厳しい顔で才人を向いた。
「見てのとおり、人間じゃない。ウォルターの魔法人形の一種だ」
「魔法人形……ちょっと待てよ、魔法人形でも致命傷くらったら倒れるはずだろ【8巻】」
48 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:26:42 ID:/8zwchxn
「あいつらは別だ。〈永久薬〉で動いている、物理的に破壊するしかない。 まあ、いちばん厄介な魔法人形がここにいないだけでよしとしよう――」
背後の森から咆哮が聞こえた。 マーク・レンデルが月をあおいで舌打ちした。 その咆哮はまだ遠いが、耳をすませばそれ以外の叫喚、破砕音なども聞こえてくる。それは、刻一刻と近づくように思われた。
「もう来やがった。おい、坊主、あいつらは引き離してやるからさっさと塔の扉に陛下を連れて行け。あれは死なないし硬いから、剣で倒そうとするのは時間の無駄だ。 あの塔は一度中に入ってしまえば、塔の番人たちから攻撃はされないと昔、ウォルターから聞いたことがある。 入れなかったらすぐ引きかえしてこい、すみやかに陛下を隠すから」
弓を置き、腰のぼろぼろの革ベルトにさしていた手斧を抜いて、マーク・レンデルは数名の部下とともに突進した。
魔法人形の一体が、あっさりと腹に手斧をぶちこまれる。 ……にもかかわらず、その腕が剣をかまえるように動き、突きを送りだして無法者の一人ののどを刺そうとした。 その無法者があわてて飛びのきながら、「早くしろ」と才人にむけて怒鳴る。
たしかに乱闘が始まると、かれらは魔法人形たちと渡りあいながら、巧妙に橋の通路に隙間を空けているのだった。 才人は覚悟をきめて、アンリエッタを背負ったまま剣を器用に抜き、左手にルーンを光らせて一気に乱闘のそばを駆けぬけ、橋をわたって扉に達した。
「姫さま、起きてます!?」
扉の前で、ふにゃふにゃのアンリエッタを背から下ろす。 よろめいて才人にしがみつきながら、どうにか女王は二本足で立った。 それを支えながらも、才人はがっちりと閉ざされた堅牢無比そのものの鉄の扉を、困惑気味に見る。
「……どうしろってんだよ」
49 :黄金溶液〈中〉:2007/12/20(木) 01:27:27 ID:/8zwchxn
橋のなかばで魔法人形の一体とつばぜり合いをする羽目になっているマーク・レンデルが、余裕のない声で叫んだ。
「ウォルターのやり方と同じはずだ、陛下の手をかざせ、押しつけろ!」
ふらふらしながらも、アンリエッタがどうにか自分で手を出し、扉に押し当てるように手のひらで触れた。 最初の数瞬はなにも起こらなかった。 才人が(だめか)と苦い思いをいだいたとき、その音が響いた。
〈照合。あるびおん王家直系ノ者、風ノるびー〉
ぎょっとして才人はのけぞる。その軋るような錆びた声は、扉の上部から聞こえた。 塔そのものがしゃべったような錯覚におちいる。いや、錯覚ではないのだろうか。
〈資格アリ。然レバ疾ク入ラレヨ〉
扉が、ほんとうに軋る。 冥界への穴のようにぽかりと口をひらいて、黒い内部をさらした。
……才人はさきほどの道中でマーク・レンデルに聞かされた話を思い浮かべた。 魔術や錬金術のたぐいには、平民にはうかがい知れなくともきちんと体系づけられた論理がある。 塔に踏みこめるのがクリザリング家、そして王家のみという点にも、なにか選別する条件があるはずなのだ。
家系であることを考えると、おそらく「血」。 もしくは、その家系に代々伝わる何か。 マーク・レンデルの推測はただしかった。両方だったわけである。
アンリエッタの血は、アルビオン王家の血も濃い。彼女の死んだ父王はアルビオン王の実弟だったのだから。 そしてアルビオン王家に伝わってきた「風のルビー」は、いまアンリエッタの手にあった。
マーク・レンデルの語った伝説によれば、最上階の「塔のメイジ」を、アルビオン王の名において解放すればよいとのことである。 その千年前のメイジによる大半の魔法人形はじめ、多くの〈永久薬〉による効力を及ぼされた物品を、無にもどすことができるという。
(ここまできたんだ、上に行ってやろうじゃねえか)
才人は小ビンのふたを取り、アンリエッタに渡す。 女王は強く酩酊したように震える手で受けとり、最後の一口分の解毒薬をくいっとのみほした。